春が来た

中国人の友人に、「チャイニーズ・ダンプリング」というものを貰ったところから、今日の冒険は始まった。餃子である。大量である。なんでも、中国の北部では、新年に餃子を食べるのが風習なのだそうだ。そう、今日は、中国では春節、つまり新年なんである。

あれっ、今日は節分じゃないの。この二つの行事ってつながりがあるのかな、と一瞬思ったのだけれど、春節というのは毎年日付が変わるらしいので、たまたま偶然なのかもしれない。

ともあれ、春節と節分が一致した本日、なんかものすごく目出たい気がして、豆まきする気満々で大豆を購入し、ついでに春を呼び込んでくれそうな黄色いチューリップも家に連れてきた。チューリップの花弁のところには細く赤い線が入っていて、花びらの輪郭は少しぎざぎざで軽い。

そこまで準備しておいて、また演劇フェスティバルの公演に出掛けた。
今夜のは池田亮司氏の『datamatics [ver.2.0]』。以前から評判はいろいろと聞いていたので、高まる期待。音量がすごいというので、入口で耳栓を渡される。

上演は普通の劇場スペース。映画を見るような具合で、一時間。これ、この作品には辛い。うーん。アート・ギャラリーで映像に取り囲まれるように体験したら、また別の印象だったのかもしれないけど。うーん。うーん。今夜の体験も、いろいろ微妙であった。

開始数分はものすごくワクワク・ドキドキした。音と映像のシンクロの気持ち良さが最高。ひゃあ、と心の声が感嘆した。ただ、次第次第に、その快感は消え失せて、またしても私の脳の中に、解析野郎共が増殖し始めたのだった。全く、この白けた野郎共には参る。彼らは余りにも辛辣なので、私は思わず「いい加減にして!」と怒鳴りつけたくなるくらいなのだ。

彼らの意見、そして私自身の感情と照らし合わせて、そこで起こっていたことを考えてみると、既知感と時代性ということが問題であるらしい。映像はすごくカッコイイと同時に、カッコよくなかった。矛盾するようだけれど、このカッコよさは現在よりも過去と繋がっていて、ある時代に先端だったものを即座に思い出させてしまうので、結果として古びた印象を受けてしまう。この「古びた」感じは、コンセプチュアルなものがチラっと見える瞬間にもっとも強く浮かび上がり、映像が徹底的に抽象的に推移していく時には薄らいで、結構キモチ良かった。

ともあれ、隣に座っていたラッコは3分で彼の知覚スイッチをオフにしたらしい。彼は実際、この上演の後にプンプン怒っていさえしたのだ。データの海に常に浮遊しているラッコにとって、今もっとも見たくない種類のアートであったらしい。

ラッコの感情がアートによって害された場合、非常にタチが悪い。しかも、今夜は激しい雨で、しかもしかも、公共交通機関Cラインが工事のために止まっていた。雨に打たれながらなんとかバスを乗り継いで、へとへと家に辿り着いた時には11:30PM。まだ間にあうと、即座に豆まき。滑り込みセーフで魔を払い福を呼び込み、Vにもそっと春がやって来た。安堵。

☆ 節分や独り撒きする豆の音