野球帽と寿司の幸福論

雨の降る中、本日は、ラッコ車でお隣A国S市へと向う。途中から少し晴れて、また夜に向って雨。激しい雨。

国境を超えてA国に入ると、道行く人のサイズがC国に比べてかなり大きくなる。気のせいかな、といつも思うのだけれど、何回も目をパチパチ開けたり閉めたりしてみても、頭の中でもう一度今見ているものを反芻して、早急な判断はいかんと、判断を停止しつつ30分くらいキョロキョロ観察してみても、やっぱり結論は「デカい」ということに落ち着く。空の方に向ってデカいのではなくて、地平線の方向にまんべんなくデカい。前も後ろも、右側も左側も。人間が球形に近づいているという驚異。ものすごい質量のある人たちが歩き回っている。どうやったらあんなに大きくなるのだろう。やっぱり食べ物の違いなんだろうか。

「憂鬱だからだよ」とラッコは静かに言う。人間、憂鬱だとジャンクな食べ物を大量に食べたくなるのだ。そうやって食べて食べて気を紛らわす。飲んで飲んで気を紛らわす。それはその場しのぎの慰めに過ぎないのだけれど、それでも、そうするしかない人がA国にはたくさんいるということらしい。でも、これはA国だけの現象じゃないし、彼や彼女や知らない誰かだけの悩みじゃない。食べなければ、何か別のことをして憂さを晴らしているだけ。なぜ、人間はフツウに、素直に、あっけらかんと幸福になれない動物なのだろうか。人類の抱えている不幸のエネルギーは膨大らしいので、エネルギー保存の法則からすると、世界はかなりの幸福を不幸の側へと奪い取られている。なんとか不幸と幸のバランスが五分五分くらいのところまで戻せないのかな。皆が、夜寝る時に「なんとなく明日が楽しい」(by 岡本文弥)なんてフと思いながら柔らかな夢の領域に暖かく身を委ねることのできるような、そんな今日はどうやったら手に入るのだろう。

その答えがひょっとしたら書いてあるかも知れない本を読み始める。こちら。

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

幸福って何だろう。お金持ちも美女も、名声を得た成功者も、幸福であるとは限らない。幸福は物差しの届くところにはないらしい。特に、自分ではない誰かが作った物差しなんて、何の役にもたたない。でも、世界は誰かが作った物差しで埋め尽くされている。小さな椅子一つを引きずって来て、ほっかり静かに本をめくるための小さな場所を作るのにだって、結構難しい。物差しは引き出しの中にも、壁にも天井にも、ベッドの上にも、窓の外にも、無数に飛び交って地面に地層を作っている。そして、この物差したちは、測ったり比べたりするのが大好きなので、隙あらば意識の裏や表に張り付き、滑り込んで、測れないものや比べられないものを、我が物顔で測ったり比べたりしておせっかいに報告する。

「あんた、ちょっと足りないね」「あっちの方が、えらい」「君は、あの人に勝った」なんて、物差しはこういう喋り方をする。物差しどもに悪気もないのだろうけれど、どうにも退屈なヤツらで、うっかりすると、世界のありとあらゆるものに張り付きしがみついて目盛りを大声で読むので、大変に鬱陶しい。

この物差しをザックザックと掃き寄せ、世界と同じくらいの大きさのゴミ袋に詰め込んで、まず燃えないゴミに出すことから始めるのがよい。なんてことが、ラッセルの本に書いてあるのだろうか、などと期待しながら、恋文を読むように冬の本を読む。

S市であちこちお使いを済ませ、お気に入りのお寿司屋さんで夕食。家の息子さんらしき日系二世か日系三世の若いお兄ちゃんが寿司を握るお店。耳にピアス、頭に野球帽という出で立ちで、カウンターの中に立っていなければ、クラブ帰りのクールな若者風なのだけれど、巻物は端正にきちっと巻くし、握りは小振りでバランスがいいし、若いのになかなかの腕なのである。忙しい夕食時に一人で寿司部門を担当しているのだけれど、全くアワアワ、ドタドタ、といった不必要な焦りエネルギーを放出しておらず、涼しい顔で、微笑みを絶やさず、カウンダーに座っているお客さんと軽く雑談などしながら、でも、あれれっ、と思う間に握りが並び巻物がきりりとカットされてGO。平常心ってやつか、これ。とても気持ちのいいお兄ちゃん職人の握ったマグロなどカウンターで頬張りながら、ああ、これは間違いなく幸せだな、と考える暇もないくらいに、口の中で溶けて行く味の七色の奥行きを楽しんでいた。