日本人の心

ずっとテレビのNHKニュースを見ている。
それと同時に、海外のメディアがどう今回の日本の国難を伝えているか、気になる。

昨日のニューヨーク・タイムズには"Flaws in Japan’s Leadership Deepen Sense of Crisis"という見出しで、危機に弱い日本の体質(危機的状況における指導力の欠如)が指摘されていた。その中で、" a conflict-averse culture" (=衝突を避けようとする文化)という表現が目に留まった。ドキッ。これ、とっても思い当たる部分がある。できることなら、衝突や摩擦は避けたい。不都合なことがあっても、はっきりとそれを相手に伝えるよりは、うまくすり抜けて、不愉快な思いをせずに(させずに)済ませたい。海外生活が長くなった今でも、無意識/意識的にそんな風に行動しちゃうことが結構あって、そういう時「ああ、私って、日本人だよなあ」なんて思ったりするのだ。

まあまあまあと衝突なしに場を収めるのは、日本文化の良さでもあるので、なんとも難しいところだが、確かに有事の、特に指導的立場に立つ人にはこれとは別のメンタリティーが必要なのかもしれない。外国外野にワイワイ言われてもねぇ、ということもあるけど、確かにこの辺りが日本の弱点なのかもしれず、学べるところは外国の視点でも何でも取り入れてどんどん学んでいけばいいと思う。

なんて、ちょこちょこと海外メディアにも目を配っていたら、「日本人が書いた記事(の英訳)が載ってるよ」と、ラッコがニューヨークタイムズの記事を差し出した。

ほう、どんなことが書いてあるのかな、と読み始めたのだけれど、読み進むに連れ「ん?」「ん??」「ん???」と「?」の数が増えていった。なんとなく納得いかない。なんとなく賛同できない。そのうちなんとなくうっすら怒りのようなものすら込み上げて来た。普段ならば、いろんな意見があってもいいのだし、と目くじら立てずに通り過ぎるのだけれど、日本人の生の声がなかなか外国には伝わっていない今の瞬間に出た記事だから、なおさら、ちょっと敏感になった。

著者は「日本人は第二次世界大戦敗戦後、自分の国にも政府にも誇りを持てない不運な国民だった」と説き起こし、今回の災害で、過去2、30年で初めて、日本人は日本という国に希望を持ち始めた、と言う。

そうかなあ、私はずっと日本という国にも日本人であることにも、誇り持ってたんだけど。(私、変わってるのかな、うーん、そう?)

著者の視点によると、今回の災害で突然、それまで利己的独善的だった日本人の「キャラ」が変わり、社会のため国のために力を合わせようというキャラに変身したのだという。そして、日本人は今、突然自分達を誇りに思いはじめているのだ、と著者は驚いてみせている。

そうかなあ、私は、いつだって日本人の中には(日本人、とひとからげにすることにはそもそも問題があるかもしれないけど)、誇りも、助け合う心もあったと思うけどなあ。(それとも、私は寅さんみたいな、時代に取り残された古い男、いや古い女なのだろうか?)

厳しい環境で今もがんばってる被災者の方々、感情はあまり外に出さないけれど情に厚い東北のおじいちゃん、おばあちゃんの姿、それを助ける様々な年齢・立場の人たちの姿をニュースで見るにつけ、人間の心の底知れぬ深さや複雑な成り立ちの全部を引き受けることなしに、「キャラ」などという軽い言葉で切って捨て、あたかもそれまで日本人の心はどこにもなかったかのように話を纏め、一方で今回の悲劇が日本人が日本人である誇りと愛国心、国民としての結束を遂に取り戻す願ってもない契機だ、と論じているこの新聞記事は、日本人の本当の姿を代弁していないんじゃないかと思った。

目が覚めた、というのはあるかもしれない。忘れてたものを、思い出したとか。
でも、そのことが今、「日本人の誇り」の問題と捉えられて、言い立てられるのは、なんだか的外れな気がする。確かに穏やかに何かが変わる予感はあるけれど、それはそこにもともとあったものが、そっと浮かび上がるようなひとつながりの変わり方なのではないかと思う。

この記事にはなるほどと思う部分もあるし、さまざまな視点があっていいわけだから、これ以上のコメントは控えたいのだけれど、ぜひこの記事を読んで、ちょっと考えてみて欲しい。(どう思う?)

http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17azuma.html?_r=2

☆ 春の街ゆく吾は誰どこの誰