一つのボタンから全ては始まった

一年以上前にお目にかかった方から突然連絡があって、
なぜか知らず、ラジオの仕事をすることになった。
ラジオの仕事は、ずっと昔からやってみたかった夢の一つで、
考えてみると、それは小学校の頃に遡る。

まず、私はボタンマニアであった。
と言っても、服についているボタンではなくて、
エレベーターのボタン、バスの停車ボタン、科学館のディスプレイについてる赤や緑のボタン、押しちゃいけませんと書いてあるPanic Button、世界のいろんなところにあるなんだかよく分からない不思議なでっぱりなんかを押すのが大好きで、そのボタンの集大成のようなマシンを操っているレジ打ちのお姉さんは、憧れの職業だった。

だから、ボタンが一杯ついている「テープレコーダー」というものが我が家にやって来た時、私の心は弾んだ。しかも、このマシンはボタンがあちこちについているだけではなくて、小さい穴みたいなところに「マイク」と小さな文字で書いてあって、音を「録音」できるというではないか。録音する時には、赤いのと、そこから一つ飛び辺りにある「再生ボタン」の両方を同時に押すという複雑なオペレーションも心を躍らせた。まだ私の手は小さくて弱かったし、ボタンは限りなくデカく重かったので、三回に一回くらいは同時に押し損ねて単なる「再生」になってしまったりした。そんな時、マシンから「ぎゅるる」なんて唸りが聞こえて、心は更に小躍りした。

せかいを、きろくできる!!!!

ラジカセのマイクの精度は、でもそれ程高くなくて、遠くの小さな音まではなかなか拾ってくれない。第一、あちこち持ち歩いて録音するには、カセットが重いし、ポータブルにするための単1電池六個もウチにはない。

そこで思いついたのが、自前のラジオ番組を作ることだった。
友達が遊びに来た時に、どうでもええインタビューなんかをアドリブでやって、
でも、出演者が私とKちゃんの二人しかいないので、
適当に声色も変えたりして、何人分もの偽インタビューを作って録音したりした。お得意にしていたのが、今ではすっかり忘れ去られたイタリア鼠「トッポジージョ」というキャラクターの声色だったのだが、あそこでミッキーマウスに行かずにトッポジージョに行ったところがなかなかシブい。今でもアメ車よりイタ車が好きだもん。三つ子の魂百までとはこのことか。あ、待てよ、ミッキーって喋らないんだったっけ。

その当時、私は父の書棚からくすねた(セレクトした)文庫本を並べて貸本屋をやっていた。といって、近所の子供に貸すなんてのではなくて、家族に貸す。しかも、一冊一回10円。自分のことながら、せこいと思う。ちゃんと借り出しカードも、スタンプも作った。家族もお義理で時々借りてくれて、元々自分の本である父なんかも私の貸本屋から借りてくれて、最盛期には一週間で50円くらい儲かったものだ。そこに、今度はオリジナルのラジオ番組が並ぶのである。これはすごいアイディアだった。今思うと、時代の先端を行ってたかもな。何しろ、これは録音機をバーベル代わりに使えた19XX年頃の話なのだ。

でも、番組は一本で終り、そのカセットテープは幻のカセットとして家族や友達に語り継がれることになったのだった。ラベルも自分で色鉛筆で塗って作ったやつで、虹色をしていた。たぶん今もそいつは故郷Nの押し入れの片隅で眠っている。

因果というものは、面白い。
忘れていた頃に、あの頃のボタン押し魔が目を覚まして、キョトキョトと好奇心の目を輝かせ始めたのだから。

☆ 声届く不思議かみしめ初電話