ちょっと離れて

最近、夜寝る前にちょっとづつ読んでいたのが夏目漱石の『三四郎』。もともと大いなる読書家ではないのだけれど、ここ数年、冬眠のねぐらの中でいろんな本を読んだ。でも、小説の時間や世界の空気がこちらに漂って来て、その儚くも心地よい場所にずっとうろうろしていたい、と思うような小説にはなかなか出会わなかった。

三四郎 (角川文庫)

三四郎 (角川文庫)


とにかく、痛かったり苦かったりがさがさとササクレ立ったりしていて、その場所からとにかく一刻も早く脱出したいような小説もたくさんあったし、それを書いている人の現世的な目的意識ばかりがちらちらして、どうにも胡散臭いのもいくつもあった。中にはでも、宝石みたいなのもあって、それはそっと本棚の片隅に取っておく。読んだ本の大概は売り飛ばしてしまった。取っておいても、次に読もうと思うまで、また随分日々を重ねることが必要らしい本も、多い。

漱石先生の本は、読んでいる端から、もう一度、いや何度も繰り返して読みたいような文がそこら中に散りばめられていて、何度も味わってまだ美味しくて、もったいないからポケットに入れて散歩に出た先でまたポツリとその文や言葉を取り出して口に入れて、そしたら世界が少し違って見えた、という、そんな言葉の集まりだから嬉しい。

小説ってなんなのだろうなあ、と私には今でもよくそれが分からないのだけれど、漱石先生の本を読んでいると、ああ、そうか、なんか少し分かったぞ、と思ったりするのだ。こういう先生のような態度を低徊趣味的と言うんだそうだ。その言葉も当の本人が造ったらしいけどね。それは世俗を離れているということらしいのだけれど、そうかな、先生の小説は、世俗を離れているだろうかな。

そこに記されていることは、十分に世俗であるようにも、思えるのだけれど。ただ、世界を少し斜めには見ているようだ。少し距離を持って。高みから。でも、スノッブというのとはちょっと違うような気もする。10メートルの高さから。100メートルの上空から。この感じを追求すると、サン=テグジュペリなんかも仲間に入って来る。世界は、時にはちょっと離れないと、よく見えないのだもの。

☆ 五月雨や3時のカフェの長話