花とどく

特にどうってこともない一日の始まりだったんだ。でも、携帯に近所の花屋さん(実は友達)からの留守電メッセージが残っていた。電話には80%くらいの確率で出そびれる。呼び出し音を小さくしてあるせいもあるんだけど、そもそも、まず今日も誰からも電話なんて来ないだろうな、というのが前提なので、電話が来た時には携帯が鞄の奥底に埋もれていたり、電池切れだったり、何かに夢中になっていて出損なったり、ひどいもんなのだ。なんでこんなに電話が来ないのか。つまり知り合いが少ないからだ。もともと社交性動物ではないらしいのだけれど、長きの冬眠によってつながりらしいつながりがほとんど途絶えてしまった、もしくは、知り合いを作りそこねた、というそういう目覚めの初夏なのである。

先週、ずっと開けていなかった箱をソージの途中で開けたら、大量の名刺の束が出て来た。自分でプリントしたようなやつじゃなくて、ちゃんと所属なんかも書いてある真面目な名刺。そんな名刺を持つような(ということは、どこかに所属していた)時代もあったのである。しかし、このように大量にその名刺が残っているということは、その名刺を手にした辺りから既に冬眠の兆しが現われていて、つまり、その名刺は世界にばらまかれもせずに、箱の底で眠っちゃったということなのだ。

この名刺を誰かに一枚ずつ渡していたら、誰かとひょっとしたらつながれたのかしら、と思うと、名刺の山というのはなんとも恨めしく見える。とはいえ、そのままゴミ箱に捨てるわけにもいかないので、どうしたものかと思案中。人一人とつながったら一枚シュレッダーとか、なんかゲーム感覚で使ってみようかな。

話がものすごく逸れたのだけど、花屋さんからのメッセージは「あなたにお花の贈り物があります、取りに来て下さい」というのだった。えー、私にはなー、とか思いながらお店に行ったら、バラとカラーをあしらったゴージャスなアレンジメントが花瓶に入って待っていた。実は近々迫っている誕生日のプレゼントを貰っちゃったのである。カンドー。あんまりデカくて重いので、部屋まで運ぶ間に三回くらい休憩した。

荒川修作さんが亡くなられた。3月に『養老天命反転地』をぶらぶらしてきたばかりだったので、天命の反転=死なないというコンセプトと作家の死というのがどうもうまくつながらなくて、混乱してしまった。養老での体験が何だったのか、まだそれを時々咀嚼してたとこだった。なかなか解けないおいしい謎を一つ貰って帰って来たような感じだったのだ。コンセプトと自分の体の間にある(らしい)隙間、アートって何なのだろうという問い、あの坂を上り下りできないおばあちゃんなんかはどうやって天命を反転したら良いのでしょうという変な心配、などなど、フとした時に、養老の山がぽわんと浮かんで来てたところだった。とても残念である。合掌。

☆ 天命はいずこにありや麦の秋