尺取り虫通過中

いよいよ新作と四つ相撲開始。誰に頼まれたわけでも、行く先が決まっているわけでもない、未知の旅。さて、どこに行こうか。完璧な自由。でも自由ってのは、怖れが裏側にくっついている。目の前や頭の後ろや、体の内側の奥底に無限に広がっているらしい場所の、どこに進んでもいいんだよ、という誰かの声が聞こえる。この果てしもない自由の中で羽根がぴゅうんと気持ちよく伸びそうなものだけれど、どうも羽根らしき羽根もまだ生やさず、最初の一歩をどっち向きに踏み出そうかな、とうじうじ怖じ気づいているようなところがある。

ともあれ、最初の一歩を出さないことには、次の一歩も出ないので、いい匂いの風が吹いて来る方向に、えいやっ、と一歩を踏み出す。すると、あら不思議。一歩前に見えていた世界とは、もう世界の形が変わっている。ついでにもう一歩。また、ぐわんと世界が変わる。色も匂いも、つぶつぶの形も、光の角度も全部変わる。この感じは、ゼロから何かを作ってみる時に、いつもやってくる変な感覚なのだ。この感覚は上から見るとやたらに楽しくもあるのだけれど、その楽しさの一つ一つに錘が付いていて、その灰色の錘たちが、これまた恐ろしい顔つきで四六時中不安なことを呟いている。そんなに簡単に、楽しいなんてことはないさ、と、本当はそこのところをヤツらは親切にも教えてくれているのかもしれない。

毎回、初めの一歩をようやく出す頃には、どこかにそれが行き着くなんて、どうもうまく想像できない。途中で道に迷って野垂れるのではないか、とか、路を誤って近所を一周して帰って来るような醜態になったらどうしよう、とか、もう不安という不安が硬めのゼリーみたいなものとなり前方を塞いでいて、どうにも息苦しいのだ。でも、道端にやたら小さい青い花が咲いていたり、尺取り虫が横切ったりもするので、そんな不安の間をかき分けて、世界から少し楽しい気持ちを貰いながら進んで行く。たぶん、どうせ、迷うだろうな、という予感もある。そして、いつも、確かに、迷う。でも、それでもとにかく両手ぐるぐる回しで進んで行くと、複雑だった風景がだんだんと整理されてきて、道らしいものが見えて来る。今までに一度だって、どこにも行き着かない旅はなかったのだ。迷ったら、目をつぶったらいい。光のある方向というのは、目をつぶっていた方がよく見えることがあるから。

旅の最初あたりでは、いつものことの不安に押しつぶされそうになって、ああ、どこかに地図はないのかしら、誰か行き先を教えてくれないかな、なんて、ちょっとでも楽をしようという怠け心が出て来る。この怠惰は起きがけのベッドの温度に似ているし、骨を入れ忘れてぐだぐだになった肉袋の嫌らしさがある。そいつらはわざと一日に半歩くらいしか進まないで、ぐずぐずと溜息なんかついてぬくぬくを試みたりもする。でも、回答は、どこにも書いてないし、それよりも、地図があって、そこをただ辿って行くような旅は、予想もしなかったような場所には絶対に連れて行ってくれない。自分の小さな計画なんかが綿屑に見えるくらいの、はあ、こんなところがあったのか、というような場所に行き着く旅だけを、いつも探している。のかな。

☆ 握り締め進め茫漠たる五月