誕生日的思考

今日は、お釈迦様が生まれた日だとか、いや違うだとか、でも確か今頃だとか、そのような情報が入って来る。「ブッダっていつに生まれたんのだ?」とラッコが尋ねるのだが、数字にものすごく疎いので即答できず。「キリストが生まれる前だよおな?」「...たぶん...」調べてみたらやっぱりそうだった。

用事があって外に出ると、完璧な青空に顔の形をした白雲(白熊じゃないけど、限りなく顔も感じも似てる)が大胆に登場中。空の上半分くらいをもっさもっさしたデカいやつらが占領してる。それでいて曇った感じが全然ないのは、雲がどこまでも真っ白に発光していて、光線も真っ白に強いからだ。なのに、あれ。鼻の上に雨粒にすらならない雨線:糸サイズが3本くらいすっすと。計測したら0.000なんとかくらいになりそうなこの雨の微量もすごいけれど、それを感じ取り雨と認識する鼻の頭の皮膚の感覚とやらも凄い。人間の体ってのは、いやあ、すごいセンサー搭載なんだなあ、と変なことにやたらと感心しながらバスに乗った。

今日も、やたら道中でホームレス風のおじさんおばさんと出会う。そのうち一人はI AM HUNGRY.とかマジックで書いたダンボールの一片の後ろに座り込んで、そこはドラッグストアの前辺りなんだけど、ちびたタバコを吸いながら、必死でよれよれのペーパーバックを目先三寸で読んでるとこだった。あれは読んでいるというよりは、しがみついているという感じ。文字一つ一つを追うことで、堪え難い一瞬一瞬の苦痛から逃れようという感じ。行きにおじさんは読んでいて、一時間半くらい後で帰り道でもまだおじさんは読んでいた。帰り道にちらっと見ると「第77章」の初めのところを読んでた。たぶん、最後の一文字を読み終わったら、また最初の一文字に戻って読み続けるのだと思うのだけれど。そうしないと、死んでしまう、という迫力がおじさんの「読み」にはある。

帰り道はバスに乗らずに、白い光の中を歩いて帰る。雨線は消えて晴れ晴れ。ただし、風が冷たいのでどうかなと思ったけれど、歩いているうちに温かくなり、行く手を鳥が横切るわ、巨大生物系の躑躅(花サイズ私の両手に収まるかどうか)が咲き誇るわ、歩行器を押したおばあさんとすれ違うわ、などなど、その間にも新緑という新緑が四方八方から押し寄せて、くぐれば木漏れ日の曼荼羅。その上には青空と白熊。どの瞬間もまたどの連続も拡大したり、切り取ったりぱっとしてみると、どこまでも不思議で面白く、すげえ、植物がこんなにもさもさ生えて来るのは地球くらいだよな、と思うと宇宙から飛来した一点の宇宙人の眼となって、いちいち感動、どの角角も辻辻も本日の最重要課題のような気がして、単なる歩行はその辺の劇映画よりも何よりも、驚きの連続。そうか、こういうのが生きているとかいう感じなのかな、なんて、考えたりして、あんまりその考えがストレート式なので照れたりして、家に戻って。蛇口を捻るととうとうと奇麗な水が出て来て、なんだかとてもそれが凄いことだと今日は思って、ああ、幸せだなあ、感謝。なんて水に指先を浸しながら思ったりした。

裏路地で、その辺のお兄さん共が、ふざけてるんだか、SF風スペースガン風のものより、シャボン玉をシュッっと発生させてた。その泡が風に吹かれて路地を行く。お兄さんが建物にすっと入って、そこにお姉さんが通過。何にもないところにシャボン玉一つ二つ、光っていたんだから、きっと彼女は笑ったと思うよ。

釈迦尊の生まれたる日や水甘し