心はショベルカーで掘れるらしい

家の真ん前が工事現場になり、そこに四角く建っていた倉庫が瓦礫の山となり、そこを毎日ショベルカーの3、4台が勤勉に動き回って更地とすべくモノをあっちにやったりこっちにやったりしている。

建物一軒がすっぽりなくなるというのは、ヘンな感じだ。専門家ではないので分からないのだけれど、何がしか風水的なものがぐぐぐっと変化したようで、気の流れがここ数日随分と変わってしまって落ち着かない。気のせい(それとも「気」のせい...)と言えばそれまでなんだけど、なにとなく体調気分も今ひとつであるので、本日は思い立ち、家のラディカルソージに着手。

捨てる、捨てる、捨てる。磨く、磨く、キュキュキュ。

しばらく大規模ソージをやってなかったので、かなりの手応えがあったのだけれど、急激に変化した気の流れはすぐには収まらないらしく、胸騒ぎ継続。

思わず宵の街に散歩に出て、フと工事現場の横を通って、瓦礫の山をヂっと見つめて、はあ、となった。

左には建物から掘り出されて、一カ所に集められてくねくねもざもざになっている鉄筋の巨大な一塊。右には半ば打ち砕かれたコンクリートブロックの小山。その二点を結ぶ中央に真っ黒に口を開けている、地面。そこで顔を寄せあうような具合で静止しているショベルカー3匹。それは、とても冷たく、悲しい、でも深閑と透明に響く最後と最初の風景で、それがなぜかその時には、自分の心の形そのものであるように思われて、パトカーから警察官のお兄さんが覗いているのを横目に、じっとじっと、ずっといつまでも眺めてしまった。

心の中というのは通常見えないので、どうなっているかを説明するのは難しいわけだけれど、「あ、これだ」と思うようなものが目の前にあって、どうやらまたそれがひとつのさよならであるようでもあったので、なんだか名残惜しくなり、いつまでもぐずぐずとそこにいた。それよりも、本当は、この映像を眼に焼き付けておく事が、よくわからないけれど大切であるという直感がしたから、そうしていたとも言えるのだけれど。

それはとても残酷で悲しい映像だったのだけれど、そうやってしか、未来というものはやってこないのだよ、と初夏の夜風は告げてもいたので、私はその映像をきっちりと脳内写真に写し取り、またぶらぶらと、必要もないのに遠く街の向うまで、歩いてみたりした。

☆ 鉄骨の山や五月の黒い穴