スプーン忘れた

かなりすっきりと晴れている。わあい。晴れているせいか、気温はいつもよりも低くて、ゴアテックス上着にマフラー、手袋をしても、頭がスースーする。吐く息がまだ白くはなっていないけれど、空気が今日は外側から人間の輪郭をくっきりさせている。陽がそろそろ落ちる頃に、海辺を目指して長い散歩した。

寒いし、もう日暮れだし、今日はあまり犬にも出会わない。それでも4,5匹すれ違う。むくむくした白いヤツらと、黒くて耳の長い連中。クリスマスライトが灯っているヨットが一つ。ツリーと巨大なキャンドルの形をしたイルミネーションのチカチカしている公園を通って、屋上に七色に変化する光が踊っているビルの横を抜ける。左側に海。右側に街。ああ、そういえば、今日は11月から12月へとジャンプする日だったな。後方に秋、前方に冬。12月に入ると時間が加速して、どんどん街路にライトが灯って、ショッピングバッグをいくつも下げた人が右往左往して、そんなことをしてるうちに、今年も終わりの日を迎えるのだ。ああ、忙しない。

でも、今日はまだ、11月。ゆっくりと秋の最後の寒い散歩を楽しむ。左側にある海は、もうすっかり闇の中に流れ込んでいて、先っぽの辺りだけに光の反射を少し乗せて独りでうねっている。暗い海は怖いなと少し思うけれど、今日の海は怖いというよりは深い。何かがたくさん隠れている暗さ。誰でもこんな海が内側にあるのだよなと思いながら、またまんまるいふわふわの犬とすれ違って、ゆく。右側には街。海にさよならして光のある方に登って行くと、ダウンタウンの町並みが晴れた寒い日の夜の中にぽうと浮かんでいた。

あ、ここのお寿司やさん閉店してる。あ、ここに新しいカフェできてる。夏には毎日のように散歩で通っていた道も、最近は雨ばかりでご無沙汰していたので、なんだか見た事のない街のように見える。あ、ここの居酒屋さん拡張してる。あ、こんなところにペルシア料理店が。もっと小さな差異を見始めたら際限がない。同じであるものなんて、一つもない。昨日から今日へ。何も変わっていないように見える時だって。小さな粒子が、翳が、星の色が、ちょっと違う。

あちこちで日本語が聞こえる。いつからVはこんなに日本人が多くなったのかな。信号待ちをする度に、すれ違う度に、電車の戸口に立つ度に、聞こえる懐かしい言葉。左を向けばラーメンや。その奥には洋食屋。振返れば居酒屋。右向けば寿司屋。そしてまたちょこっと覗けば日本流喫茶店。Vは不思議な街だよ。日本がパッチワークのようにあちこちに散りばめられている。この街ではどうしたらいいかちょっと迷うのだ。思いっきりホームシックになろうと思うと、目の前に日本語で「ようこそ」なんて書いてあるし。ここはどこなんだろう。どこでもあって、どこでもない。C国とはそういうところだ。誰もが皆、ホームシックに思いっきり浸れない悲しみと喜びの中で生きているような。

大きな丸い銀盤月が出た。スプーンがあったら、くるりと掬って持って帰るのにな。