ええのか、ええのんか、一杯だけで?
晴れ間。お日様がちょっとだけ顔を出している朝。本当ならば、てくてく散歩にでも行きたいところなのだけれど、昨日の今日の風邪であるし、新型疑惑もあるので、もう一日大人しくウチに隔離されていることにする。でも、今のところ、悪化する気配なし。熱もないし、お腹の具合も良好。鼻水なし。関節痛頭痛のいずれもなし。咳もなし。ちょっとだけ喉にイガラっぽい感あり。
暇なので、昨日から友人に貸してもらった村上春樹『海辺のカフカ』を読み始め、上巻・下巻の二冊とも読み終わる。途中、ワールドシリーズ第6戦で読書中断。松井が豪快に打ちまくってヤンキース優勝。ヤンキースって、お金持ちで、スター選手をぞろっと集めてとにかく勝ちに来る球団で、結構好き嫌いが分かれるらしいんだけど、私のような素人目にも、なんというかサラブレッドの群れのようです。クール。アンディ・ペティットや、特にマリアノ・リベラの投球スタイルなんて極限まで洗練されて「冷えた」芸術品を見るよう。カッコいいを超えて美しい。打線もシャープ。ストイック。そしてどこまでもクール。でもまあ、これを「冷たい!」ととか「かっちょつけ!」とか「嫌味!」思う人もいるんだろうな。確かに。
さて『海辺のカフカ』。確かに、世界の果ての際のところまで村上氏は読者を連れて行って、その先にあるものを「ほらね」見せてくれるようなところがあって、実際にはそれは見るというよりも、曖昧でもやもやした霧のようなものとして浮かび上がるという感じなのだけれど、この小説でも何度かそんな自力では行けない場所の景色を垣間みせてもらったような瞬間があって、ぞくぞくした。このぞくぞく感は、タルコフスキーの映画を見ている時のぞくぞく感に少しだけ似ているのだけれど、残念ながら、無駄なオブジェ、冗長なオブジェ、俗悪なオブジェが画面の中から排除されていないために、村上小説は神聖さへの本当の一歩を逃している。ぞくっとした次の瞬間に「なあんだ」と仕掛けが見え見えの「世界の果て」のテーマパークのように。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
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映画ならばもしかしたら成り立つかも知れないことも、小説、文字の世界では成り立たないのだな、と確認させられるような部分も多い。例えば音楽。この小説には、(あるいはたぶん、いつも村上春樹の小説には)たくさんミュージシャンの名前や、楽曲名が出て来るのだけれど、残念ながら、その音楽は私の中では鳴らない。ベートーベンの『大公トリオ』が何であって、それがどう響くかを書き連ねて、それを何度も小説の中で再生反復してみても、音楽は私の空間、私の体、私の時間を満たしはしない。タルコフスキーならば、それが誰の音楽であるかという説明を飛び越して、音楽を鳴らすだろう。そして、その音楽の渦の中で、私は見えなかったものや、見ることを拒否していたものに出会う。想念を超えて。映像と音とが意味を超えた地点で。
とかなんとか、面倒臭いことを言うよりも、この小説、どうもインテリのおっさんに絡まれながら飲みやで酒飲んでるようで居心地が悪い。気持ちよく酔わせて欲しいのに、おっさんは「それはディケンズがさ」とか「メタファーのメタファーというものは」とか、やたら横から議論を吹っかけて来る。おっさんよ、世界はディケンズの小説の中や、ソフォクレスの悲劇の中ではなくて、この目の前の小さな盃の中にあることだって、あるのだよ。おっさん、音楽は概念ではないのだよ。音楽は、空気の振動なのだよ。音楽は饒舌にはせずに、黙らせるものなんだよ。歌ってくれた方がいいよ、下手だっていい。偉大な音楽についてのハナシはもういいから、演歌でもひとつ自分の声で歌っておくれよ。
- 作者: 村上春樹
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四国の高松が舞台の小説なんだけど、うどんが一杯しか出て来ないってのは、どういうことなんだ? と私は心の底から怒った。つまり、作者はうどんを、現実のうどんを食ってないということである(メタフォリカルな意味でも、たぶん現実的な意味でも)。海に近い、都会から離れた辺鄙な田舎(ごめんなさい高松!)という設定上とりあえず「高松」が舞台になっているけれど、高松じゃなくてもNでもVでもAでもBでもCでもFでも、まあどこでもよかったんだろうな。ならば御本家カフカのようにKとでもしておけばよかったかもね。高松に親戚がいて、高松がやたらにリアルな身としては、高松でスモークサーモンにホースラディッシュ入りのサンドイッチやらシーフードカレーやら食ってる場合じゃないだろう、うどん一杯ってこともなかろう、少なくとも三杯は食べるでしょ! とその辺りが気になって、ああ、これは小説という名前を借りた思想のテーマパークに過ぎないのだな、とおっさんの衒学趣味に付き合いきれなくなってしまうんだ。
音楽は語らずに鳴らせ。そして、高松に行ったらうどんは最低三杯。
一杯で、ええのか、ええのんか? 高松人の陽気な声が、私の耳元でメタファーなんてぶっとばして、生き生きと、光を放ちながら響く。
15歳の少年は、まずうどん三杯食べないと、大人になれそうにない。