さいはて

本日も曇り。ほらね、続けて3日も空が重い。
Vの秋冬には曇り&雨が多いという仮説が既に証明されつつあるではないか!(性急)

昨日に続き『旅人たちのバンクーバー』読む。田村俊子という作家のこと、初めて知る。今から80年も前に、日本人女流作家がVに住んでいたとは知らなかった。しかも日本に夫を残して、愛人を追っての逃避行。そんなドラマがこの街であったとは。80年も前のVって、淋しかっただろうなぁ。今だって十分淋しいのに。しかも彼女は、Vでは新しいパートナーの妻というポジションで彼を支えることに命を注いで、作家活動はほとんどやってなかったらしい。男にぞっこんだと、女は自分の才能を封じ込めて一生を送ることができるものなのか。今にも爆発しそうな、恐るべき愛。

この俊子のVの印象の記述が、今の私のVの印象とそれ程違っていないのが不思議。80年って長いようであって、それ程長くはないのかも。それとも、80年前の東京からVに来た人のVの印象と、今の東京からVに来た人のVの印象って、実はどちらの街も80年分ずつ進化しているので、ギャップの大きさはそれ程違っていなかったりするのかもしれないな。

こんな事を、彼女は書いているの。

「ガサツ! 無味! 無雑! なんというばさばさとした、木片を噛むような私等の周囲。私はまるで優雅な感情の感覚を忘れてしまった。この世のうるわしいもの、美しいもの、可愛らしいものが、私の感情に微笑を与えてくれては、私をしっとりとさせたあの優美さを失ってしまった」

ああ、この感じ。分かる。かつて慣れ親しんでいた柔らかく優美なもの、その肌理と匂い、手触りと芳醇な歴史の堆積が、Vにはすっからかんと欠如している。空はあっちのあっちまで広く、あざらしがぬるりと顔を出す水辺と木霊が今でも歩き回る森は、満ち足りすぎる程に溢れているのだが。

文化的な繊細さの欠乏に飢えた俊子もVの自然の圧倒的な美には心を奪われ、そして、夫と共に次第に日系移民の労働組合運動や移民女性の意識向上へと力を注いで行くのだが。

好きな男性を追ってVに辿り着いたという俊子と同じ運命を経験した著者の工藤美代子のパーソナルな視線のせいか、それとも、そもそもVに辿り着く女というのは、どこか皆似ているのか、この街で闘った女の映像が今現在のことのように鮮やかに浮かび上がり、なんとも身につまされる。

ワーホリさんやら語学学生やらがわいわいと楽しそうに闊歩するVも、オリンピックだのなんだのと浮かれているVも、私にはあまり関係のないVの姿。Vはやっぱり「さいはて」という寒く淋しい言葉が似合うと、私はどこかで思っている。