フレデリックのこと忘れてた

朝方、荷物が届いた。全く予想もしていなかった荷物であり、驚いた。そして、荷物郵便を受け取る喜びの原点みたいなものを体験した。というのは、本来郵便物というのは、相手にその他のいかなる方法によっても伝わらないメッセージを伝えるために使われていたのであって、昨今のようにメールやらチャットやら電話やらで「これこれこういう荷物封書を送ったので届くはず」などということが事前に知らされていてその到着を待つ、というのでは郵便本来の「あ、来た」という、あの何とも言えぬ「届いた!」という不思議なカンドーがちょっと薄れてしまうのである。

でも、このようなBare Essence of Yubinを味わうことは、今時の世界では稀なのだ。手紙を送ると、それが届くまでもう待てなくて、メールで「手紙送ったからねー」などとつい報告してしまい、電話で「手紙が届くけど、まあ要するに用事はこういうことなんだ」なんて説明してしまったり。んもう全く、私もあなたも、随分と気が短くせっかちな生物へと人間は進化? したものだわね。

と、前置きは長くなったが、予想もしていなかった荷物を受け取るのは嬉しい。私は息を飲み、届けに来た郵便やさんに「え、え、本当にわたしですか、え」などと興奮して念を押し、サインする手が震えていた(ってちょっと大袈裟か)。封を急く手でえいえいえいっと開き、おおっと覗き込むと、中には書物文献などが丁寧に梱包されて収まっていた。じーん。それは日本国A市に住む知人からの陣中見舞いのようなものであった。何の陣中見舞いかと言えば、V市におけるサバイバルかな。そうだ、これはサバイバルキットなのだ。日本語のサバイバル。文化のサバイバル。アイデンティティーのサバイバル。人間のサバイバル。心のサバイバル。と、なんだか壮絶な響きになってしまうが、日本語に飢え、Vの夕空に咽び、自分が誰だかよく分かんなくなる毎日をなんとかかんとかはあはあぜーぜー生きているところに、ぽんと届いた荷物一つ。有り難く頂戴します。感謝。

書物は阿川弘之のエッセイ。これまた、街のあちこちを移動しながら、お茶でも啜りながら、バスを待ちながら、海辺でアザラシが顔を出すのを待ちながら、ゆっくりと楽しみたい。だんだんとグレーの絵具が多くなって来たVの肖像画に、今年は裏側から密かに色を灯す。本というものが、こんなに温かいホッカイロのような効果があるものだとは、今まで知らなかった。こんなに遠くて空の大きいところまで来て、やっとわかったよ。文庫本を肩に当てて、背中に当てて、胸に当てて。ほかっ。そしてページを開くと、花火がちらちらと始まる。その火花を飲む。するとそれが、内側で咲くのだ。黄色オレンジの、まあるい光を放ちながら。

と、ここまできて、レオ・レオニの『フレデリック』を思い出した。昔から、あいつはタダモノじゃないって思ってたけど。フレデリック、久しぶりだね。君は最初っから知ってたんだねえ。言葉が光だってことを。

フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし

フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし