もっと手をぐるぐる回してシネマを破壊せよ

映画祭第三弾。本日はマチネに挑戦。なんだか3日も続けて映画館に通っていると、与太者の若旦那の気分である。世の人々は勤労・勉学などしているこの時間に、まだお天道様が頭の上を照らしているお昼の真っ只中に、なにやら暗いシネマなどという怪しい場所に吸い込まれ、もう一つの世界を四角い覗き穴から覗き込むなどという一種卑猥な行動を取っているという罪悪感(=快感)。さすがにそうそう罪作りな人は世に少ないと見えて、観客はまばら。行列なしで、上映時間の遥か前に会場に入った。

シネマというと、思い出す場所がある。F犬街で親方Jのもとに弟子入りした時、彼の作業場は古い映画館を改造したスペースで、通称「シネマ」と呼ばれていた。結構デカい映画館の座席部分を全て撤去して、ステージ(映画館に常にステージがあるのかどうか知らないけれど)部分を残したようなものであった。天井がとても高くて、だだっぴろくて、二階ギャラリー席部分は衣装部屋になっていた。舞台の袖には楽屋のような部分があり、この部分を私たちもまた楽屋のようにして使っていたのだけれど、きっと昔のシネマというのは映画上映の他に、時々演劇なんかもやるような娯楽空間で、そんな時のために楽屋があったのではないかと勝手に想像している。

J親方のシネマの中は、まさにもう一つの異世界だった。浮世の常識や良識や、当たり前のことが全く通用しないような、もう一つの世界。「俺たちは破るためにだけ規則を作る」とかいうのがJ親方の口癖であったのだが、シネマの中ではタブーはなかった。むしろ、世の中のタブーに従うことがタブーであった。そこで何を学んだのですか? と言われれば、芸術は人間が無意識のうちに身にまとっている無数の束縛、がんじがらめの不自由さを打ち破ったところに見えて来るということかな。いやはや、怒濤の毎日であったよ。

などと、そんなことを観客のまばらな映画館で思い起こしていると、上映が始まった。なんだか非常に破綻している映画であったが、松山ケンイチのド津軽弁と両手ぐるぐる回しでめっちゃめちゃに世界を掻き回しながら走り回る姿は、もう少しのところで映画を破壊しそうで、なかなか爽快であった。でもぎりぎりのところで理に落ちてしまって、物語もしくは映画というメディアの破壊までには至っておらず、惜しい、という感じであった。脳と身体の相克&進化というテーマ系があるらしいのだが、そういう小賢しいテーマ軸の辻褄合わせなんてのは、どっちかというとどうでもよくて、もっと徹底して世界を掻き回して欲しかったな。おっと、かくいう映画は『ウルトラミラクルラブストーリー』。英語だとBare Essence of Lifeという題名になっていて、雰囲気違う〜、と唸った。

ウルトラミラクルラブストーリー [DVD]

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津軽弁いいなあ。方言いいなあ。と思いつつ、この方言の感じって、カナダの観客には全然伝わってないんだよな、と思うと頭が捩れた。字幕の英語を追っても、方言っぽい味が出てるとは思えなかった。ところでこの映画って、日本で上演する時には日本語の字幕がついてたりするんだろうか? 時々英語字幕をちら見しないと、内容についていけないくらい方言が難解で、そこが楽しかった。巷の女子が皆マツケン素敵タイプの男子はマツケンマツケン最高などと言うのを、そのマツケンってずっとマツケンサンバマツケンだと思っていたというくらいの私なのだが、両手ぐるぐる回しで疾走する我らがマツケンに思わず愛を感じてしまった。いたよなあ、こんな男子が、そのへんに。そう、ある顔立ちの分布地域が重なっているのだろうか、郷里Nには結構マツケン似の男子が散見されたのである。日本国北のイイ男の一つの典型として、カテゴライズしておくことにしよう。