ベートーベン再発見

日本の田舎Nより本届く。白洲正子2冊。歳時記など俳句の本数冊。秋に読む本としては最適にしっとりとしている。美しいものと美しい言葉がページの端々に広がっている。読むと言うよりも、持ち歩いて時々一行二行を口に入れて、ボリボリと丁寧に咀嚼して、何度もコロコロと味わって、フっとその透明な音を秋空に戻して、またちょっとだけ歩を進めたいような、そんなくっきりと整った言葉が並んでいる。

どこから齧ろうか、どこの一片をパチンと割って、口に入れようか。奇麗な色がページのそこここに浮かんでいて、目移りするし、なんだか勿体ないし。こんな本たちは、どこか透き通った空の下のベンチなどで、ぽつり、ぼつり、と読む。日本語っていいなあ。きれいだなあ。美味しいなあなどと嘆息しながら。

映画祭第二段。本日も長蛇の列に並ぶ。本日の列には、年輩の方多し。なんというか、文化の香りが列のあちこちから立ち上っているような。そう、今日の映画にはクラシック音楽好きがどっと群がっているのである。上映作品はイギリスのドキュメンタリー映画『In Search of Beethoven』- この映画を見るとベートーベンの全てが分かる、とまで評されている映画なのであった。

ベートーベンのことって、知っているようでいて、実はよく知らなかったりする。髪の毛を振り乱した肖像画はすぐに思いつくし、耳が聞こえなくなったり、失恋を繰り返したりと疾風怒濤の生涯を送ったとか、なんとなくそういう通俗的なイメージも浮かぶのだけれど。でも、よく考えてみると、あまり彼のことを知らない。

映画はベートーベンの誕生から死までを丁寧に追って行く。時間軸に沿って進む感じはとてもストレートなんだけど、ベートーベンを心から愛して、ベートーベンと共に生きている名演奏家や研究家への徹底したインタビューが面白い。彼らの言葉の端々からベートーベンの素顔がちら、ちら、ちらりと次第に見えてゆく感じ。ベートーベンが天才的なピアニストだったなんてことは、モーツァルトの影に隠れてあんまり目立たないのだけれど、いやはやものすごいピアニストだったらしい。現在は演奏家が右手と左手に分けて演奏しているような部分が本当は右手一本で演奏するように書かれていて(左手はお休み?)、ほとんど演奏不可能な指使いが指定されていたりするんだそうだ。それを彼は弾けたらしい。で、他のピアニストが弾けないような曲をわざと書いて、ピアニストとしての腕を誇示してた、なんていう側面もあるんだって。

映画全編を埋め尽くすベートーベンの名曲の数々。いや、すごい密度。心の奥に沁みる曲が畳み掛けるように登場。あ、この曲知ってる。あ、この曲すごい。演奏も素晴しいのだが、よくもまあ、こんな複雑かつ感情的で、挑戦的で斬新な音楽を生み出したものだよなあ。胸が締め付けられるような音楽の喜びを思う存分堪能した。これまで、どうもベートーベンって苦手なんだよね...、なんてよく考えもせずに発言していたけれど、改めて聴き直してみたくなった。弾いてみたくなった。胸をもっと締め付けられてみたくなった。

音楽の力に圧倒されて、映画館を出れば静かな宵。まだ音楽が続いているみたいだった。