女の子は鴎にビスケットを撒いた

朝からモーレツにソージ。今日のソージは半端じゃない。日本の慣例に照らすと大晦日の大掃除などにも匹敵するような徹底的なソージである。何故にいきなりこのような真剣勝負のソージを決行したかというと、A国より来V中の友人一家がもしかしたら遊びに来るかもしれぬ、その時部屋が荒れ放題では何とも申し訳ないという目の前に迫る事情もあったのだけれど、そのような恥見栄虚栄などという目先のことを超越して、身辺空間を整える、それももう誰も文句の言えないくらい整える(自分ですら参った! と降参するような)、そんなソージによって全てをリセットしてみたい欲望がむくむくと朝日と共に登って来たからなのである。

しかし、時間は限られており、全てのものを分別して、いらないものはさくっと全てを捨てちまうなんていう、さすがにそこまで本日中に辿り着けそうにない。ともあれ部屋に散乱するブツを物置き室へと全て移動。まとめてみると、案外その嵩が少なくて、希望が見えて来る。そしてブツがなくなった空間を端っこから磨き立てる。ソージキはもちろん、出ましたゾーキン。外国人が見たら「あらあらあらーっ!」と驚嘆され、狂ったとさえ錯覚され、または「これが東洋の神秘か...」と目を見張られ拝まれるかも...という日本伝統芸能ゾーキンガケの出動。床にはいつくばって素手で床面を磨くなどという行為は、椅子文化、靴のまま家に入ってもオッケー文化、ソージはモップでしょ文化の欧米においては多くの場合「ばっちい」「奴隷のようだ」などとネガティブなフィルターによって処理されちゃうのであり、和尚さんが「ほう、ゾーキンガケかの、よい心掛けじゃ」などと勤労小学生の頭を撫でるなどという懐かしきJ−文化とは一線を画しているのである。んなこと言ってるバヤイじゃない。いくぞゾーキン部隊。今日は普段見逃している部屋の隅や桟の上の塵芥も一網打尽。キッチンから全ての鍋釜を物置室の棚へと移動。そもそも本来そこにあるべきものなので、収まってみるとやたら快感である。

更に玄関のタタキを水拭き。トイレの床を拭き、シンクをピカピカに磨き上げ、鏡に飛んだ水滴を拭き取り、鏡の前に一輪の花を生ける。あ、この感じ。この感じ。この感じ! この感じ!! この感じ!!! この温かい感じ。忘れていたこの感じ。心なしか、いつもよりも浴室が明るく見える。これだ、私が求めていたものは。この感じ。この感じ。まさにこの感じだっ!! と、カンドーしながら最後にソージキの中のゴミを捨てて完了。とりあえず今日はここまででタイムアウト。もともと建物自体はとても新しく、しかもモダンかつシンプルな作りであるので、ソージにより全てが収まるところに収まってみると、今まで全く気づかなかった家具なんかも引き立って、ちょっとそこらのハイソなモデルルームのようである。ははは、見よソージの力!

と、やたら勢いを得て、そのまんまダウンタウンに直行。今日はBook Offへと繰り出し、不要書物を売り捌き、お目当ての「白洲正子」を掘り出すのである。ガガっと20冊くらい売ったら$7だった。売れなかったのはただ一冊。背表紙がちょっと傷ついた『人間失格』の文庫。「申し訳ありません。この一点だけ値段がつきませんでした」。はは、人間失格はどうやらまだ私の家から外に出たくないらしい。んじゃ、持って帰りますー、と明るく対応。これはもう一度読み返せという天啓か。既に古本屋も取ってくれない本というのは、どうしたらよいのだろう。『人間失格』をVのゴミ箱へポイと捨てることも憚られるし。化けて出られても困るし。かといって、この背表紙に傷のある失格な人間と一生涯離れられぬというのも、なんだか考えただけで重くなる。そうか、文庫本を読む事以外に使う方法を考えりゃいいんだな。これまで人類の誰もが考えつかなかったような利用法。そうすれば捨てずに済むのかもしれぬ。考えてみませう。

白州正子は一点のみ発見。『西行』。その他柳美里みうらじゅんなどまとめて連れて来た。なんだか全く接点のなさそうな3人組で、レジに持って行く時「なんなんだろうなぁ...」と自分が今いる場所Vと、Vに今いる私とが急に可笑しくなってグフフと笑い、ちょっと四次元の方へ入り込みそうになった。

A国よりの友人一家と小さな船の水上バスに乗り、入り江を渡る。女の子は水が見たいからと、外の空気ががんがん入って来る入口のすぐ横に座って、ずっとずっと進んで行く水の方をずっとずっと眺めていた。アザラシはたぶんその水の下の方で昼寝をしているのだが、女の子以外の乗客はそれに気づいていない。光はどこまでも透明で、このままずっとずっといつまでもいつまでも船の中で揺れる波の編み模様を見ていたいような気持ちになった。