聖なる空間

トマト15号収穫。快晴。ちょっと汗ばむくらいの日射し。外に出ると、眩しくて目を開けていられないくらい光が強く、世界が白い。最近ソージをしてなかったせいか、家の中の空気が古びて、ごちゃらごちゃらとしている。これが「気」なのかどうか知らんけど、風水の先生なんかが見たら「あらまっ」と言うような状態ができあがっちゃってるような感じを覚える。

ソージと空気(気)の関係なんてのは、信じない人にとっては眉唾眉唾なのだろうし、私だっても昔はそんなもん全然気にも留めず部屋は散らかり放題、埃は地層をなし、窓は締め切り、おまけにカーテンまでピタリ締め切り状態で何日何十日そのままでも全く平気であった。平気、というか、鈍感であったので、その部屋が私に及ぼしていたであろう影響を察知するという感性がなかった。

その当時でも、凛とした空気の流れる神社仏閣の、埃一つ落ちていない磨きあげられた床なんかに出会う度に、そこにある空気の清浄さには気づいていたし、ごちゃらごちゃらとしたモノのエネルギーが極限までそぎ落とされた能舞台なんかを目にすると、その空間の持つ清らかな力にドキドキ心臓が反応した。でも、そうした「聖」なる空間と、自分のアパートの間に何ら関連があるとは思えず、自らは「俗」の中の俗、塵芥にまみれた空間で平気に寝起きしていたのであった。

しかし、ここ数年、その考えが誤りであったことに気づいて愕然とした。恐らく、今住んでいるVの部屋が床張りであるせいで、塵芥が突如可視化されたんである。これまで住んでいた家は畳という素敵なカモフラージュ、絨毯という濃厚な覆面などが塵芥の悪戯を隠蔽していたので、空間が恐ろしい状態になっていることを知らずに、暢気に昼寝などしていたのである。

この床の上でいやらしく身を捩り、空間を退廃腐敗へと向わせむと企てる塵芥の負のエネルギー。それを初めてはっきりと目にした私は、もう居ても立ってもいられなくなり、ソージキを出動させた。吸い込む、吸い込む。吸い込んだ端から、ピカピカの床面が出現。親の敵を取る勢いで、床という床、鴨居という鴨居の上で寝そべって鼻くそをほじっている塵芥どもを情け容赦なく成敗。全てが完了した時に、空間に満ち始めたあの空気。そう、ソージによって空間は「聖」に満たされたのである。そうか、聖なる空間はここにもあったのか。それを知って以来、ソージがたまらなく好きになったのである。と、御託を並べてないで、さっさとソージ、ソージ。

朝方、モーレツにラーメンが食べたくなり、近所の日本系ラーメンやに飛び込んだ。とんこつ長浜ラーメン。いつになく暑い日にラーメンかっこんで汗だらだらである。ここでもまた、親の敵を取るような勢いで麺一本、支那チクのひと欠けまで食べ尽くすと、そこにもまた聖なる空間が出現したように見えた。(やりすぎ)

夕刻、A国から来V中の友人一家と浜にてピクニック。おにぎり卵焼きソーセージなど持って出動。日没には間にあわずってのは、日没がぐっと早まって、今では7時には日没。でも、空が茜色に染まり、美しい。友人んちの子供二人は、カナダグースを追っかけたり、グースのおっさんらの輪に入って何やら鳥族と会話していたり、波打ち際で波と戯れたりして、何やら楽しそう。おねーちゃんと弟が薄暮の中波打ち際でしゃがむシルエットの辺りにも聖なる空間がホロっと出現しており、胸を打たれた。というよりも、その姉弟の寄り添う姿を見ているうちに、こちらの中の、普段手の届かない場所、たくさんの澱と汚れの溜まった心の奥の奥がスっと澄んで、そこに聖なる空間の一片が現われたのだった。心のソージ。これはやろうと思ってもなかなかできないのであるが、こんな時、思わず知らずそんなことが起こることがある。感謝。全ての縁あるものに。