幻のフォー

今日も晴れ。朝からすかさず空間移動。テクテク歩いてカフェ2号へ。コーヒーは飲まなかったけれど、脳は十分な変化を察知、今日はオネム脳から軽く脱出。よしっ。

さて、このカフェの売りなのか、なぜかここでは注文するかしないかというタイミングでグラスになみなみと注がれた炭酸水が出て来る。ちなみにウェートレスさんがお茶を運んで来るような形態のお店ではなくて、スタバみたいにカウンターで注文するお店なので、この「お水」サービスにいつもドキっとする。空間移動が目的の私のような客にとっては、お茶と水を交互に啜る方式でだらだら居続けができるので、この一杯の水はちょっと嬉しい。でも、炭酸水の味の方がお茶よりもいつも印象的で、「水飲んだ」という気持ちで茶屋を後にするのは、どうしたものか。

なんて、どうでもいいことを考えながら、頭の裏側の方でも何か考えていたら、なんかいい感じのアイディアが浮かんだ。

それをシャカシャカとノートに書き取りながら、なかなか爽やかな朝だな、と眺めれば外には秋の光。そのうち、カフェはどんどん混雑して来て、どうやら巷はランチタイムに差し掛かっているらしい。と、なぜか急にスープ系麺系のものが食べたくなり、カフェを後にする。今日も炭酸水の味が舌に残っている。この通りにはやたら麺系のものが多い。中華系麺屋が少なくとも3軒、ベトナム系麺屋が2軒、そして日本の拉麺屋が一軒。いつもならラーメン屋にずずっと引き寄せられるところなのだが、今日はなぜかベトナム系麺「フォー」というやつが食べたくなった。

この「フォー」というやつは、透明な米粉の麺の上に半生の牛肉や調理した肉団子なんかが乗っかっているスープヌードルで、もやしとミント、ライムなんかが付け合せとして別のお皿に乗って出て来る。これを麺の上に乗っけて食べる方式。掻き回すと牛肉が熱いスープの中でほどよく半生に調理される。何故か時々この「フォー」というものが無性に食べたくなるんだけど、食べた後ではほとんど例外なく後悔する。イメージの中の味と、実際の味が微妙に違っていて、現実の方の味は割と大味なことが多くて、がっかりする。この「イメージの中の味」はもしかしたら、何か別のヌードルなのかも知れず、でなければ、たまたまふらりと入ったお店のフォー味がイマイチだったのかもしれない。過去に「これ旨い!」というフォーに出会ったことがあったからこの脳内のフォーの味イメージができたのか、それとも食べてないのになんとなく味を想像したのか、それさえよく分からない。それなのに、なぜか時々、このフォーってのが食べたいような気持ちが盛り上がって来て、食べた後には必ず後悔する。この繰り返し。

今日のは、食べる前に後悔した。出て来た時に、まず「う、不味そう」と思ってしまったのは、たぶんお店の壁が全部水色だったからかもしれない。もやしもなんとなくイキが良くないし。私はもやしという食物はかなり好きな方だけど、イキの悪いもやしってのは悲しい。寿司ネタと同じでもやしは鮮度が勝負。しかも、フォーの場合は生のまま食べることになるので、今さっき釣って来たばっかりのもやしだよ〜ということじゃないと辛い。フォーはとってもシンプルな料理なので、もやしに元気がないとなると救い所がない。そう思って見ると、肉の方も今釣って来たばかりの肉には見えない。そして肉団子に至っては、いつ釣って来た何が入っているかすら分からないのである。広がる空想、ビビる胃袋。その中間で困り果てる舌。ああ、どうしよう、でも、とにかく食べよう。ずるる。

などと、ビクビクしながら食べたせいか、もやしの亡霊にやられたのか、ストレートにお腹こわした。
ああ。私のイメージの中のフォーはどこにあるのだろう。今回の試みでかなりメゲたので、暫くは「フォーを訪ねて三千里」はお休みとなるかもしれぬ。とりあえず3ヵ月くらいはフォーの看板を見ても遠慮したい。V市における寿司事情を考えると、V市のフォーだってもかなりのツイストがかかっている可能性がある。フォーだと言って供されているものが、もしかしたら本場ベトナム人が食べたら笑っちゃうような何か別なものなのかもしれぬ。きっとどこかに本物のフォーが隠れているはず。一体どこに。我が脳内の理想のフォーに出会う日は、いつか来るのだろうか。(つづく。でも当分お休みなので、次回未定)