ボーケンの第二フェーズ

異国の地で、秋空を見つめたりしていると、思えば遠くへ来たもんだ、の心境になる。自分で選んでここまで来た、ということになるんだろうけれど、振返ってみると、潮の流れに流れ流され、いつの間にかここに打ち寄せられたという感じの方が圧倒的に強い。なんというか、決断する時には割と乱暴にやってしまう方なんだけど、その決断の裏側に確固たる計画性や将来への展望などが希薄であって、その時々の気分で「あ、こっち」とか「あ、あっち」とか、そんな風に進んで来たら、戻れないところまで来ていてベソをかいている子供の心がいつのまにか常連の道連れになっちまったのである。

以前はこれを「楽しい冒険」と捉えていたんだけれど、今は声を大にして、無謀なボーケンは危険である。と警告したい。若気の至り、つっかけ履いてそのまま出て、行き先も知らず乗り物に乗り、いつの間にか辿り着いていた場所で異邦人と出会い、その人が「あっちは面白いことがあるらしいよ」と言うのに乗っかって、ふらふらと歩いて行くとそこは断崖絶壁の山。それでも「何かこっちが面白そうだ、こっちの方が高そうだ」などと、高い所にやたら登りたがる腕白小僧風にひょいひょいとホップステップジャンプとやっていたら、突然夜が訪れ、寒さと空腹に震えて「お母さん、助けて。」などと呟いてももう遅い。足にはつっかけ。家にはもう到底生きて帰れそうにないし、かといって、ラッキーにもこの山を超えたとしても、その向こう側に何が待っているのか全く知らないのである。地図も持ってないし、磁石もない。もとよりどこか目的地があって出発したのでもなかったから、道に迷ったのではなく、実は最初から迷いを迷っていただけなのだった。ただ憧れだの夢だのという名の茫洋としたNowhere Landがあるかも知れない方向を、目をつぶりぐるぐるぐるっと三度回って「こっち」と言い当てた方向を信じて(何の科学的地理学的旅行学的根拠もないにも関わらず)テクテクテクとやって来たという具合なのだから。

確かにボーケンというものは楽しくて、「かわいい子には旅」的なボーケンを、やはりつい若者に勧めたくなってしまうのだが、鉄砲玉がつっかけ履いた状態で行くちゃらちゃらとしたボーケンは金輪際おすすめしない。ボーケンをしてたつもりが、人生というボーケンをボーに振る可能性がある。世界というのは思ったよりも狭く、しかし同時に、思ったよりもずっと広く複雑に入り組んでいる。矛盾しているようでもあるが、要するに「青い鳥」方式で、実際の地理的なボーケンは、交通機関の発達した今となっては、結構スイスイとできてしまったり、時にはあっけない程簡単に、昨日写真で見ていたエッフェル塔の前に自分が立っていたりもするし、もちろんどこかの砂漠に迷い込んで、しかも道に迷い、水が底をつき、星の王子様に助けられた、などということも世界のどこかではまだ毎日のように起きていたりもする。だが、こういうクラシックな「冒険」の危うさ、極限感覚、完璧に迷う姿、死の恐怖、そして天使の降臨といったエレメンツは実は遠くではなくて、近くに潜んでいたりもするのである。ボーケンを求め求めて長く危険な旅と数々の英雄譚を通過、あらこれがボーケンっていうの、案外ちょろいわね、などと侮りながらボーケンを終えて(終えたつもりになって)辿り着いたHome。そこにあるのは平穏な日常、ボーケンとは対極にあるものだとばかり思っていたら、籠から逃げたはずのボーケンは実はそこにそのまま籠の中に収まっており、そこからは日常の中の、現実社会の中の、人間同士の隙間の、脳の中の、精神の中の、恐るべき冒険が始まる、などということもあるのだ。

なんて、いろいろと管を巻いてますけれど、地図持たずにつっかけて出たこの旅。ついにボーケンの第二フェーズに突入し、困惑困惑、溜息、そしてまた当惑。堂々巡りの闇冒険は暗く寂しく冷たく痛く。日暮れて道遠し。でもどの道をゆけばよいの? 知らんのだ。恐ろしい。これが行く先を決めずに飛び出したパチンコ玉の行く末の秋である。教訓もしくは喜劇(=悲劇)にはなるが、アハハハと空元気に高笑いしても目がマジ。地図は持って行くように、つっかけで出ないように、少なくとも行く先は決めて出るように。若者は「またまた〜」と茶化すだろうが、こちらはマジな目+涙目で忠告するよ。

迷いの秋。唯一の救いは、闇の中にいると、「一寸先は闇」の格言が中和されるという事実。むしろ「一寸先はもしかしたら光」という希望が絶望の底に蠢いている。