続・ボーケンの現場

トマト13号14号収穫。ミックスサラダは二日前に間引きをしたところ、間引き分だけ成長している。これが不思議なんだよな。きっちり間引き分成長するこの感じ。植物に鋭敏な空間感覚があるとしか思えない。隣りの葉っぱと接触してると成長が促されないような仕組みになっとるのだろうか。ヤツらは双葉ちゃんから四葉ちゃんへと成長し、双葉の次に出て来た葉っぱはギザギザだったり丸かったり、ギャザーがついてたり、いよいよ個性を主張しはじめた。こいつらがほんの一週間前くらいにはちっこい、どう見てもそれ程区別のつかない種の・・・だったことを思うと感慨無量。

さて、まだボーケンのことを考えている。ボーケンが「青い鳥」であったと知ってしまった今、見回せば巷はボーケンの闇に堕ち、ボーケンの責め苦に呻く人々で溢れ返っていることに気づく。酒類売店の前に座り、小銭を乞うているホームレスのおっさん。このおっさんが無謀なボーケンの成れの果てに世界のこの特定地点の濡れた地面の上に辿り着き、そして今なおアル中でぐずぐずになった脳と後悔と怒りと落胆と狂気と自己嫌悪と空腹の無間地獄の中を息も絶え絶え、体はボロボロになりながらも日々ボーケンし続ける鉄砲玉冒険者である可能性は結構高い。そして、そこで買い物をしている奥さん。ボーケンなんてこととは無関係な、平凡で善良な主婦の仮面を被っているが、その奥底に毎日朝から晩まで彼女を悩ます困難なボーケンの足取りが隠れていないとは限らない。

V市に世界のありとあらゆる場所からやってきた人々の後ろ姿をフと見かける時、私はその少し歪んだ肩の線辺りに、ボーケンの痕跡を読み取って「ああ」と溜息を漏らす。カラリと楽天的なガイド付きジャグジーディナークルーズ付きのボーケン(それは正確にはボーケンとは呼ばず、疑似ボーケンに過ぎないのだが)しかしたことありましぇーん、という人もいるだろうし、人生何もかもがバラ色で、これがボーケンであったとしたら、いや楽しくてしょうがない、ボーケン最高、ボーケン万歳、などという全てにおいてラッキーかつ悩みのない人も確かにいるのかもしれないが、ざざっと見渡してみると、そこの人、ここの人、あっちの人の裏に隠れたボーケンを想う時、「イタッ」あるいは「じーん」「どーん」「つーん」「ぐわーん」「ずどーーー」などという、ありとあらゆる痛さの感覚のバリエーションを感じてしまい、私は目を伏せる。

無数のボーケンが、道端に転がっている。「月日は百代の過客にして...」、と中学校の国語の授業で暗唱させられたあの一節がお経の大合唱みたいに地の底から聞こえて来る。人生は旅なのだなあ。それも、ボーケン。というわけで、無鉄砲がつっかけを履いたような危なっかしいボーケンは一つの分かりやすい例だけれども、実はボーケンには無限のバリエーションがあって、心の奥底・心の闇・心の洞窟深海のボーケンも含めれば、どんなに堅実に誠実に一歩一歩ふりだしからゴールに向って詰め将棋をしているような人にも、ボーケンの闇、ボーケンの重み、ボーケンの恐怖と希望が交錯するような時がきっとある。

なんだかボーケンを悪者にしちゃってごめんなさい、なのだが。いや、ボーケンというのは深く、遠く、そして限りなく近いところにある。ボーケンの深みに足を取られずに、歩み続けることができるのか、どうなのか。いやはや、どうもこのぬかるみには、閉口するのだけれど。