変化のお年頃

雨。しとしとと降る。
朝起きるとテレビで日本の新閣僚の就任会見をライブでやっている。日本は深夜らしい。思わず見入ってしまった。政治家の話というのは、日本語のはずなのにいくら一生懸命聞いても何を言っているのか全く分からないことが多いものだが、今日の会見は意外や意外言葉が通じる内容が多かったので、いつになく興味が沸いた。あの、文法が間違っているわけでも語彙が間違っているのでもない(間違っていた人もいたけど)のに、まったくこちらに通じて来ない政治屋言葉というのは一体何なのだろう。どうも中身がないことをいかにもあるように語る時にこの現象が起こるような気がするのだが、とすると、今日聞いた会見で語られていた言葉にはそれが指し示している内容が取りあえずはあったということになるのかな。今後に期待(ほんとは激しく期待...でも縁起を担いでさらりと期待)。

政治の転換期...などという言葉を聞くと、なぜかしら平家物語の「祇園精舎の鐘の声...」というあの一節が鳴る。生々流転。どんな事物も事象も一つの状態が長く続くと何かが死んで、滅びへと向ってゆく。「いつまでもずっと、このままでいられたらいいのに...」と恋する乙女のように誰でも思う瞬間があるのだけれど、やはりそれでも、どうやってみても、どんなにジタバタしてみても変化というのはやってくるものらしい。変わることなく続くことはできぬ。そして、変わるということは何かが終わり何かが始まることでもある。終わっちゃうの。サヨナラなの。バイバイなの...
...それは寂しいし、不安だし、懐かしいし、名残惜しいし、既に手にしていたブツを失うのはどうにも悔しいし、というわけで、人心は不変に執着する。でもね、変化というのはどうやら自然の、宇宙の摂理であるらしく、人間如きがどう足掻いてみても、対抗できるような相手じゃないらしい。

思えば、人の一生も、絶え間ない変化の連続。一日だって同じことなんかない。でも、なんとなく「入学」とか「入社」とか「結婚」とか「マイホーム」とか、ゴールらしきものを設定して、それが達成されるとその獲得した状況がとにかくずっと続いて行くと信じたり、一度クリアしたステージをとにかく守ることにこだわったりする。このゲームでは「ふりだし」から「ゴール」に向ってできるだけ近道で効率よく行く方がラッキーと見なされ、「ふりだしに戻る」とか「残念今までの成果は全てパー」などというのが出たりするとガッカリ肩を落とすことになる。でもね。

「ふりだしに戻る」も「全てパー」も、変化という意味ではマイナスではなかったりするのかも。変わるのってとっても難しい。でも、時々、変わりたくないのにもうどうしようもない力によって変わらざるをえないような瞬間が襲って来ることがあるのだ。双六で「やったー、ふりだしに戻っちゃったー」と喜ぶ人を今まで一度も見たことないけど、もうダメかと思うくらいのマイナスに襲われ、それまでの道程を変えるハメになった人が、後から振返って「あの時に変われたのがよかった...」なんてことはよくあるらしい。

こんなことを考えたのは昨日から植島啓司著『偶然のチカラ』などという本を読んでいたせいかもしれぬ。何がどう転がってどうなるか、何が勝ちで何が負けか。何がラッキーで何がアンラッキーかなんて、そう簡単には割り切れない。ただ、そのいろんな変化と偶然必然の波にうまく乗って、泰然自若としてられるかどうか、その辺りの心の持ちようにかかってるらしい。

偶然のチカラ (集英社新書 412C)

偶然のチカラ (集英社新書 412C)

日本も変わるお年頃なのかな。これはやはりいろんな意味で好機なのではないかな。なんだかちょっと怖いですけど、一歩踏み出してみる時が、どうやら来たらしい。