脳が脳のことを考えるの図

今日もよく晴れた。夏の終わりのところが、ちょっとだけ空に浮かんでいた。一日ずっと本を読む。本を何冊も両脇に積み重ねて読むような本の読み方も久しぶり。脳に関する本なのだが、それを読んでいるのも脳。なんてことを考えているのも脳。そんなことをかんがえてるのは脳だなって考えてるのも脳。

とこのように脳が脳に関する本を読む図というのは、なんか笑える。鏡に映った自分を初めて見た日のような驚きがある。--- 私は自分の姿を初めて見た日のことを実はよく覚えている。見た瞬間「え?!」と思った。その当時、(今でもややそうだが)小児ぜんそくとやらで幼児なのにやたら声がしゃがれていて、凄みがあったのだ。その声のイメージが自分の中に邪悪なダークキャラを作ってたんだけど、鏡を見た瞬間にギャップが大きくて唖然とした。ぜんぜん凄みないじゃん。

その時の違和感はたぶん今でも続いていて、鏡を見ると「あれっ?」と思うのだ。これが自分か。なんか違うな、と思うんだ。---

脳は自分のことが書いてある本を見つけて、やたら喜んでいる。へえ、そうだったのか、へえ、すごいなあ、などと感嘆を漏らし続けている。こっちは(こっちってどっちか分かんないけど)、「え、ストレスを受けるとここんところが、こう刺激されて、こんな毒素が出て...」とか、これまで随分と脳を破壊するような頭の使い方をしてきたことを知り、めそめそ後悔したりしている。いろんな新情報を得て、しかも脳のことを考えていると脳が活性化するのか、やたらと新しいアイディアなんかも浮かんで、それをノートに書き留めつつ読み進む。新情報の中でも「脳が実は意識よりも先に動いている」という話が面白かった。こっち(=意識?)が脳よりも先にあるだろうと何となく思っていたので驚愕した。当たり前といえば当たり前だけど、私の意志って脳の僕に過ぎないのよね、という事実をつきつけられて、またぞや捻くれた我が脳に思いを馳せる。

それからやっぱり「心」の問題。脳のあらゆる部位をいろいろと探って行っても、なかなか心は見つからない。脳には外界からの情報をねじ曲げるような作用があって、感覚器官がキャッチした事物を事物それ自体として捉えられないという特性があるらしい。脳ってのはものすごい色眼鏡をかけていつも意地悪く笑っているような野郎なのだ。で、これまたものの本によると、座禅なんかはこの脳の色眼鏡をはずすトレーニングと見る事もできるらしい。瞑想すると脳のある部分が活発になったり不活発になったりと脳内にいろんな影響が出るらしいのだが、それを繰り返すことで色眼鏡なしに外界と接する境地(それが「悟り」?)に達する瞬間があるらしい。確かに、脳というのは巧妙に悟らせないようにできていて、個人的な偏見や感情、言語や思惑のレンズを通すことなしに全てをまっさらのままで知覚することが非常に難しい。この色眼鏡を取り払うと、もっと自由な心の領域が開けているらしいのだが。その自由な境地になかなか辿り着けないようにできているのが人間でもあり、それをまた求めるのも人間というところなのかな。

ああ、この我が脳の癖、我が脳の歪み、我が脳の偏見。これが自分である、と開き直ればいいんだろうけど、やっぱりもうちょっとすっきりしたいんだよ、な。と、私の脳は自分を持て余しながら、私(=体?)に頼るのであった。座禅でも本格的にやってみますか、ねえ。

あまりに天気がよいので、Vイギリス海岸まで散歩。巨大な「chef Wasabi」の入っているテイクアウトの寿司折りを夕陽を見ながら食べる。沖合では映画かCMの撮影らしく、コンテナを二つ乗っけた船の上で、スケートボードの曲乗りを男二人が続けているシルエット。遠いので人がいるな、というくらいと「あ、飛んだ」「あ、転んだ」「あ、成功した」くらいの情報しか分からないのだが、あんなに高いところで、あんなに離れたギャップを飛んで、あんなに派手に転んで怪我しないんだろうかとそれが不思議であった。成功率は10%くらい? 成功すると、浜からも拍手が漏れた。夕陽はやたらオレンジでやたらでかく、気持ちのよい宵。寿司&スケボ&海。なんのこっちゃ。変な宵である。