晴れた! 読んだ! 踏んだ!

昨日うじうじと雨を呪っていたら、今朝は清々しい晴天だった。でももう夏は空気の中に一筋も残っていなかった。昨日の雨のせいで空気が澄んでいるのか、光がやたらに透明。「サラダミックス」は身長2センチくらいになった。ヤバい。ぎっつり蒔きすぎて、既におしくらまんじゅう状態になっている。どうもいつも欲張りすぎて、頭打ちになる感あり。間引きしなきゃなのか。でも、みんなカワイくて育ててあげたいんだよな...。今のところ繁茂する双葉ちゃんらにこれといった形状の差異は見られないのだけど、中に葉っぱの縁取りがちょっと紫のヤツらが混じっているような気もする。誰なんだ、紫のヤツらは...。毎日観察して、きっと突き止めてやる...。

読書の秋なのか、頭がたまたま読書モードなのか、ここ数日取り憑かれたように読書。数日前にbook offで仕入れて来た本たち、既に4冊読破。当たり本あり、ハズレ本あり。それにしても、面白いなと思うのは、本の中に著者の自慢や評論家などとの確執(そしてそれに対する反論)などが書かれている部分が複数の本の複数の箇所に散見されるという事実。どの本も「心」とか「脳」だとかそんなことを書いてあるものなのだが、その著者自身の心がそれほど穏やかではなさそうだというのを見ると、人間の業の深さのようなものを感じる。脳を効率的に使い、心を平静にする秘訣、みたいなことを力説している、その文章自体が波立つ心と囚われ状の脳の産物であるとしか思えないという、人間の限界を戯画のような状況が起こっていて、ちょっと笑ってしまう。

面白い視点や驚きの情報などもここ数日の本の旅の中にはキラキラとたくさんあって、エゴだの業だのへの囚われで胸が悪くなりそうになった瞬間もなんのその、読書の後には世界の光が少しだけ明るく見えた。半透明シートが一枚そっと剥がれたように。小学生の時、学校の図書室に「本は心の栄養です」とか書いた短冊がベタベタ貼ってあったんだけど、その本当の意味が今頃になって分かって来た。今頃になって...。遅いよ! 遅すぎる!!

しかし、読書道へ足を踏み入れるのに、遅すぎるということはないらしい。それが8歳の時であっても、45歳であっても、79歳であっても。

ここに来て、日本語の本の読書が三度の飯よりも好きになり、「趣味は?」と聞かれて、何の躊躇いもなく「読書。」などと言ってしまえそうな状況にすら辿り着いたのは、やはり日々英語の静かな侵略を受けているということと関係があるんじゃないかと思っている。脳が、心が、バランスを取りたがってるんだと思う。肉を食べ過ぎたんで、今日は野菜ね、というまさに心の栄養分のバランス取りが、英語と日本語が盛りつけられた毎日の皿の上で行われている。

久々にタップ。ちょっとやっただけで、へたりつつどどっと汗。地面を、地面を、地面を、これでもかっ、これでもかっ、と踏みしめる。踏むってのは、日本の舞踊だといろいろとスピリチュアルな意味があるけど、タップはどうなのかなー、とへたりながらそんな考えがチラっと過った。踏んでいるのはステージの床なのか、バーの床なのか、やっぱりそれでもそこは地面だったり大地だったりに繋がっているのかいないのか。それとも。
私がタップシューズで踏んでいる地面は、踏まずには居られないような風景が広がっている街角の暗がりにあるのかもしれないな、などと。