花に水

今朝、白州正子の本を読んでいて、「あ」と思った。
日本の陶器は使ってなんぼなのであって、観賞用の器というのでは本当の良さが分からないというようなことが書いてあったからだ。

「・・・手に持った時の重さとか、柔らかさとか、唇に当てた時の感触とか・・・・・・その他もろもろの肉体的・生理的な条件がからむので、眼で見ただけでは全体の美しさはつかめない」(『陶芸のふるさと』)

先日、チャリティーイベントで陶芸クラブの人たちの日本風の陶器を売っていた時に、中でもひときわ美しい小さな壷があって、目に留まったのだけれど、これがなぜか最後まで売れ残った。もう一つ、とても大振りのティーポットのようなものもあり、こちらもかなり斬新なデザインで皆の注目を集めていたのだけれど、こちらも結局売れなかった。この二つの作品は、どうやら名のあるアーティストの作だったらしく、お値段も他のものよりも少し高かった。

売れなかったのはそのせいかもしれない。だが実は壷の方には「この壷には水が入れられません」という注意書きがついていて、どう見ても花器に見える(花器として使いたい)陶器なのに、水を入れられないというのが不思議で、手に取った人も首を傾げながら、「素敵なのだけれど、ねえ・・・」と困り顔だったのだ。おじさんの一人は「まあ、中に防水コーティングのスプレーでもすれば使えるだろうけどね」と言った。陶器にスプレー。それもまたなんだか違うよなあ。ティーポットの方も、おもしろい形なのだけれど、やけに重く大きく、実用にはどうも使いにくそうに見えた。たぶん、二つとも作者は観賞用の陶器として制作したのだろう。

お客さんたちのどのくらいがそこに直感的に気づいていたかどうか知らないけれど、すぐに今日から食卓で使えそうなものが、どんどん売れた。たぶん今頃は、それらの器にシリアルとミルクが入ったり、ミートローフが並べられたり、殻付きピスタチオが盛られていたりするのだろう。花瓶にはもう水仙の三本程が無造作に投げ込まれているかもしれない。

花のために水をたたえることのできぬ花瓶など、あってはいけないのだ。
それがいくら目に美しくとも。
作者の方には申し訳ないが、売れなかったのにはわけがあったのだ、とやけに納得した。

☆ 花のなき花瓶の口の虚ろかな