世界は無駄でできている

今日はストレッチしながらこんなの読んだ。

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

本というのは、そのうちみんな電子書籍になるんだろうか?
ラッコは、そうだと言う。あと5年もすれば、紙の本なんて、売れなくなるのだって。
図書館が全部電子書籍になったら、スペースが余るなあ。
カウンター一つ分の広さあれば十分。
いや、データが取り出せる二センチ角くらいの差し込み口があれば十分かも。
その前に、実際の場所としての図書館もいらなくなる。
本屋ももちろんいらなくなる。
レコードやというのがいらなくなって久しいが、データ化できるものは、どんどんいらなくなる。とりあえず小さくして、または、どっかに記録しておいて、必要な時に取り出せばいい。

と、私は捻くれ者なので、やっぱりここで「そうかなァ?」と首を傾げる。

数千冊分のデータが入ります、とか聞くと、数千冊も読まないしなあ、と思う。
テレビのケーブルチャンネルも、デジタル化されて、やたらに多くなって、映画でもなんでも、お茶の間にいるままダウンロードして見放題ですとか言われると、そんなに見ないしなあ、と思う。

世界の中の「無駄」かもしれないいろんなスペースが合理化されて消えて行くにつれて、捻れかつ極端な私の中の誰かが「じゃ、人間もとりあえず、なくてもいっか」なんて言う。人間もデータ化しちゃえば、実世界なんて必要なくなる。究極の合理化。なんだか、本末転倒なのだけれど、世界は時々(しばしば)本末転倒な方向に進んで行って、それを進歩だとか進化だとか呼ぶので油断ならない。

本を読むのって、本当はデータ化できない、体の感覚だと思う。指先の、紙の匂いの、膝の上の重さの、25ページから189ページに瞬時にバサっと紙の束が割れ込む潔さの、端っこが少し摺れて黒ずんだ懐かしさの、その中に浮かんで来る言葉の遊び。はは、そんなノスタルジックな、古いよ、古い、後ろ向きだよ、と言われてもいい。そういう無駄が好きなのだから。

無駄なもの、体の感覚が消えるとき、人間も消える。

怖いよ。

☆ 門先へついて来たりし落葉かな