同じ子供

ちょきちょきぱっちん。ぺたぺた。
アートだとか言って、私がやっていることは、小学校3年生の時に夏休みに遊びでやってたことと、一体どこが違うんだろう。

ほぼ、完璧に同じ。

ただ、子供の頃は無心に遊んでいたけれど、今は祈るような感じで遊んでいる。時々じわじわ楽しくなる感じは同じ。遊び疲れても、遊び止めないところは、今の方がやたらに真面目だ。遊ぶな、とか、遊びはありません、とか、もう遊ぶとかいう歳じゃないでしょう、などという世界をぐるり通過した後なので、遊び止めたら遊び忘れそうで、ひたすら遊び続ける。面白いのは、ちょきちょきやっていると、あの夏の日の子供と同じものが自分の中でちょきちょきやっているということだ。何度も何度もいろんな夏を通り抜けたというのに、そこだけは何も変わっていない。

ただし、外側は随分と変わってよれよれになっているので、そんな子供が内側でちょきちょきやってるなどとは、大抵は誰も気づかない。こういう子供は、あっちにも、こっちにも、本当はいろいろな人の中で動いているのだけれど、それは外からは見えないようにできている。

猫の中にも、無心の頃の猫の子供が入っていたりするんだろうか。それとも、猫はいつだってずっと無心なのだろうか。同じフロアに住んでいるフワフワの三毛のネコがいつも通過する私の方を不思議そうに眺めている。

朝顔日記:25日目:3枚目の葉っぱは、産毛が生えていて、懐かしい朝顔の葉っぱの形。そう、この形だ。

☆ 三毛猫の半分覗く端居かな