花であること

大野一雄さんが亡くなられたというニュースを聞いて、彼の舞台をはじめて(そしてそれが最後になってしまったのだけれど)見た日のことを思い出した。

場所はパリ。屋外公演だった。
私たちの飛行機はその日に到着して、公演会場にかろうじて到着。外国に行ったのは、それが二回目のことで、世界の全てが新しく、でも時差ぼけで体はあそこでもここでもない場所に挟まって、うつろい、神経は興奮の極みにありながら眠っているという変な具合で、熱っぽく膨張した体に夏の夜の乾いた風が吹いて、骨は普通固いのに、なんだかマシュマロのように今日はどこまでも沈んでいく柔らかさがあって、自分と世界との境目がはっきりしなくなり、外に見えているものは、どこか宇宙の彼方から投影されているみたいでもあったし、自分の奥の奥にある映写機がカラカラとそれを映してるみたいでもあった。そんな回りくどい言い方を止せば、まあ、あらゆること全てが夢みたいだったということになるのだけれど。その夢は茫洋としていて、でもくっきりとどこまでも鮮やかな輪郭があって、今でも、風の感触といっしょに、はっきりと思い出せる。

息子の慶人さんが、客入れの最初からずっと(40分くらい?)舞台の奥に後ろ向きで直立不動で立っていたのもすごかったけれど、一雄さんが出て来ると、舞台にぱあっと花が咲いた。最高に美しくて、最高に醜くて、最高に哀しくて、最高に幸福な花。

可憐だったなぁ。眼と、心の奥に、それは焼き付いて、今も踊っている。かれこれ20年くらい前のことなのだけれど、その白く発光していた花としての彼が、今も、これからも、ずっと中の奥の底のほの暗い場所で踊っているのだ。

☆ 舞人は眠るイリスは舞ひ踊る