座禅立禅

今日はNYのMOMAでやっている、マリーナ・アブラモヴィッチ展の最終日だとかいう話をNY Timesで読んで、あ、そうだったのか、と思ってMOMAのサイトにアクセスしてみた。マリーナはこの会期中「The Artist is Present」というパフォーマンスをずっと会場でやっていて、今日がその最終日でもあるのだ。

このパフォーマンス、アーティストと観客が向かい合って椅子に座っている、というだけのものなのだけれど、アーティストの方は美術館の開館時間中ずっと座っていて、観客の方は順次入れ替わる。なんでも、どのくらい座るかは観客個人にまかされているらしくて、数分座って交代する人もいれば、一人で一日ずっと座っていた人もいたらしい。座りたい人続出の展示だったらしいので、丸一日座っちゃった人は、他の観客からかなり恨まれたかもね。でも、しかし、それでこそのパフォーマンスアートであるからして、後ろに長蛇の列ができていようと、皆の視線が注がれていようといまいと、心の赴くままに座るというのでよいのだ。

このパフォーマンスは美術館のWebカメラを通して、ずっとずっとHPで放送されていたのだけれど、自分はその同じ空間の中にいるわけではないのに、このライブ映像を見ているだけで、かなり楽しめた。マリーナは、コンセプト上は静止して座っている、ということになっているのだけれど、実は結構動く。観客が交代してる間に鼻かんだり、ストレッチ風のことをやったりしてるのを目撃。展覧会の最初から数えると、既に700時間を越えた辺りだったから、不死身のアーティストとはいえ、やっぱり結構お尻なんか痛かったりしたんじゃないかな、なんてね。

昔、1時間15分くらいじっとして立っているというパフォーマンスをやらされたことがあった。じっとしているのが得意だと見込まれて、知り合いのコレオグラファーのお兄ちゃんに頼まれたのだ。ギャラ有りの仕事だというので、へらへら出掛けて行ったのだけれど、これが猛烈にキツい仕事だった。キャストの一人のダンサーは、途中で足を痛めて欠場。それくらい過酷なのだ。大体、最初の15分くらいが経ったところで、体の感覚がなくなっていく。自分がまっすぐ立っているのか、それともくの字になってるのか、手がどこにあるのか、上なのか下なのか、なんてことが全く分からなくなってくるのだ。

ああ、動きたい、体を動かしたい。体が悲鳴を上げ始める。人間にとって動くことがどんなに大切なのか思い知り、そして、残りの1時間は、気合と我慢だけで立ち続けた。ああ、もう駄目、なんて気弱になる自分を励まし、頭の中にぐるぐると沸いて来る邪念と闘う。あれは、観客うんぬんよりも、自分との闘いでした。座禅ではなくて、立禅というものも可能であるということをその時知ったのだったよ。いや、まいった。

立つよりはマシだろうけど、座るのもキツいと思う。でも、700時間もやんなくていいから、もちょっとじっとしてて欲しいなんていう気もする。あのくらいの緩い座りなら、アタシにもできるかもー。とか思うのはやはり浅はかなり。だって、あれは、マリーナだから成立するパフォーマンスなのだ。オーラと言うか、カリスマというか、座る彼女の妖気がこっちにも伝わってくるようで、ビデオ見てるだけでも、なんだかドキドキ、ゾワゾワした。

今回の展覧会は、彼女のパフォーマンスの回顧展で、昔のパフォーマンスの再演をたくさんやっていたのだけれど、座るパフォーマンス以外は彼女自身ではなくて、別の人がやっていて、噂によれば、そっちの方はどうもイマイチだったらしい。パフォーマンスというのは、誰がいつやるか、という部分のウエイトが高いので、別キャストで再演再現してみても、それは抜け殻になってしまうのだろうな。パフォーマンスって、何なのだろうねえ。

☆ 座りたる君雛罌粟に変じけり