おお。すごい味方がついていた

雪が降っている。雪が降ると、無条件に懐かしい感じがするなあ、と今日も思う。雨も風も、雷も虹も美しいけれど、雪はとりわけ美しい。その白さ。その柔らかさ。その儚さ。不思議さ。雪がたくさんたくさん降って来ると、地面と空のどちらから降っているのか分からなくなってくる。下から沸き上がっているようでもあり、でもやっぱり高い所から降り注いでいるようでもあり。時間が止まり、音が吸い込まれて静かになる。自分と雪とが、何の隔たりもなくじっと向き合っているようなしんしんとした気分が降りて行く。ずっとずっと拡大してみれば、雪の結晶が花開いている。その花びらの一つ一つ、ちょっとでも触れたら消えてしまう小さな花びらのことを思う。

人間の手のなかに握り取ったり、壁に飾ったり宝物箱に入れたりできないところが雪の結晶の花の気高さでもある。でも、こっちから強引に捉えようとしなければ、髪の毛の上や、コートの肩のところに、その花はそっと乗り、完璧な美しさでとても短い間だけ咲く。あの「しんしん」と聞こえる雪の音は、この花が咲く時の音なのではないかしらと思う。ひっそりと、音ではない音で咲く。

さてさて。今日はいよいよ宴会芸を披露しなければならない日。雪の中に足跡をつけながら会場に向う。会場のパブは外とは違って暖かくて柔かな明りも灯っていて、そこにウキウキとした人たちがだんだん集まって来て、気持ちのいい空気が早くもぽわんと浮かんでいた。アジア(特に日本)のパフォーミング・アートに焦点を絞っているカンパニーのパーティーなので、和風の飾り付け。着物の人もちらほら。

楽しい宵だった。日本のマジックである和妻、琴、尺八、和太鼓の演奏、そして日本舞踊が次々と披露されて、集まった人々の中から「ふー」というようなカンドーの溜息が続く。階下では姦しい洋楽が流れて普通のお客さんたちがアイスホッケーのゲームなんかを見ているような場所なのだけれど、そこでいきなり祭り太鼓がドンドコドンと響き渡り、私なんかはもう踊り出したいような気分だったのだ。普通はどうもパーティーなるものが苦手なのだけれど、なんだか夢の中にいるようにふわふわと空気が柔らかくて、やたらに気が楽だったのは、私の血の中にある和の部分がこうした和物芸や和楽器の音や踊る身のしなりや、そこから立ち上がる昔の誰かのスピリットと反応し合っていたからかもしれない。一人じゃない、という、なぜかそんな気がした。尺八の音の微妙なかすれや、お琴で弦を指でグっと押して「くええん」なんて音がしなるところなんかに、何千人何万人何億人何千億人の和の記憶が潜んでいて来て、それが私の血を踊らせる。

というわけで、今日は何千億人何十万億人もの昔の誰かが私の味方である。苦手なパーティーでも、宴会芸を成功させねばらなくとも、緊張したり上がったり、心配したりする必要はない。不思議な気持ちだ。こういう気持ちは、和という場所から遥か遠く離れているから、初めてはっきりと感じられるみたいでもある。

さてさてさて。夜も更け、ぼちぼちと人が帰り始め、強者どものみが居残っているあたりで、宴会芸披露。
カラオケで演歌を3曲。マイクがない会場なので、おもちゃのマイクを握りしめて、絶唱
演歌ってすごいな。演歌は日本人の心です、なんていうありがちな言い回しを使いたくなるくらい、歌がそのまま感情とつながっている。
本日の出し物 1) 越後獅子 2)浪花節だよ人生は 3) 365歩のマーチ

それにしても、演歌って難しい。かなり反復練習したんだけれど、(お隣さんはきっとノイローゼになったと思う)細かいこぶしとか、声が裏返るところとか、何度やってもあんまり納得行かないままにステージ。その前にまず、歌詞を覚えるのが大変だった。(カラオケだから覚えなくても良かったんだけどね)
でも、上手く歌おうなんていうことも忘れて、地声で絶唱していると、観客からは手拍子が。
まあ、ビデオ映像との絡みも面白かったのだろうけれど、やたら皆笑ってた記憶がある。ああー。遂に笑いが取れるようになったかー。となんだかそれがやたら嬉しかった。
それに、歌っている声は確かに自分の声なのだけれど、やっぱりその後ろ側には何億人何万億人の声が聞こえて来るようで、自分で歌っていながら、なんとなくその誰かの声に耳を澄ましたりしていた。和の伝統って、演歌の底力って、すごいな。

帰り道、雪は止んで、雨になっていた。越後獅子を歌ったせいか、なんだか旅芸人の気分で、一人雨に打たれて帰りつつ、でもなんだか一人でいても一人じゃないっていう、その感じが楽しくて、思わず宙返りの一つもしてみたくなった。