緋色は翻訳できるのかしら

今日も寒い。朝、ちらほらと初雪。空気の粒が凍っているような、本当に小さな小さな雪の欠片が風に混じっている。とりあえず「わーい」と叫んでみる。雪国出身なので雪の恐ろしさ面倒臭さなども十分に知っているけれど、それでもやっぱり初雪が降ると細胞の内側から喜びが込み上げて来る。何なのだろう。このやたら嬉しい感じは。雪はたぶん、子供の頃から冬の友達だったから、「今年も友達がやってきた!」という気分なんだろうな。

ダウンタウンの東にある、アジアン・アートのギャラリーを訪ねる。この付近はホームレスの人々が非常に多い界隈なので、歩道を歩いているだけでも、ちょっと緊張する。ドラッグでかなりラリって何やら叫んだりしている人もあちこちに。そんなところを歩き回っていて安全なのか、と言われると、確かに100%安全というわけじゃない。でも、ものすごく危険かと言うと、そうでもない。夜に一人で通過するのは遠慮したいけど、昼間に気合を入れて歩く分には問題ない。この変のところが微妙なのだけれど、ホームレスのコミュニティーみたいなものがあるらしくて、そこに属していない人間が歩き回っていることがあまり歓迎されていないのかな、とそういう空気を感じる。

久々のアート・ギャラリー。展示をぷらぷらと眺める。作品はひとつひとつなかなか面白いのだけれど、今しがた外で見て来た世界の風景があまりに強烈なので、少し遠く儚い(真空な)感じがする。コンテンポラリー・アートとは。アートとは。一体。などと頭がぐるぐるし始めて、キュレーターさんと話をしているうちにそのぐるぐるの速さが増して、頭が飛び散るようだった。でもしかし、久々の刺激。知的な。脳はちょっと戸惑いながらも、新鮮な刺激に目を細めている。しわしわの深い辺りが笑う口元の形になりそうな程に。コンテンポラリー・アートの言語...という話になって、ああ、そうか、こういうものにも言語だとかボキャブラリーだとか、そういうものが存在しているのだよな、と今更ながら気づいたような気がして、ある意味ちょっと驚いたりした。誰が決めたんだろう、コンテンポラリーの言語って。確かに、美術館やギャラリーで出会う作品は、どれもその言語を喋っているみたいである。でもある日、そこに裂け目ができて、別の言語が入り込んで新しい言語が生まれたりするんだろうか。それとも、これはこれで一つの閉じた世界として進んで行くのだろうか。冬眠から覚めた頭が活動しはじめた。感謝。

帰り道、布屋さんに寄って、布数種調達。密かに準備している宴会芸のコスチューム用。「緋色」という感じの赤が欲しいのだけれど、なかなか見つからない。あと、「江戸紫」な紫なども探すがこちらも難しい。色というのはインターナショナルなようでいて、意外とそうでもないのかも知れないな。特に日本の着物地のような天然染料のふくよかな色味の心躍るような生地には、なかなかお目にかかれない。結局、ギリギリ「紅色」くらいの布を買って、それでもちょっと心躍りながら電車に飛び乗った。