ずっとずっと高いところで、いつかまた会いましょう

ははは、今日も雨だ。このくらい続くと笑っちゃう。と思って週間天気予報を覗いてみたら、今週は5個くらいお日様の絵が描いてあった。ふーん。本当ならすごいな。でも、Vの週間天気予報は当らない。いや、当らないというよりも週間天気予報は存在しないと言った方がいい。毎日変更するんだもん。明日また週間天気予報のページを覗いて見ると、お日様の数が減ってたり、なくなってたりするんだもん。毎日変更されても「週間」天気予報って言うんだろうか。結局2−3日分しか分かんないんだろうな、とあまり当てにしてない。

今日も覗き込むとそこに小さな「やる樹」があったので、すったかたとラボに行き、半日籠って仕事する。本日の作業は主に接着および鑢がけ。シャカシャカと鑢を2時間ほど掛け続けていると、本日もまた筋肉痛なり。ここでこうやって細部の細部を削り落としていることと、世界の全体がどうつながっているかなどということは今日は考えないことにする。ザラザラしたところをすべすべにしているのだもの。それでいいじゃない。どこか向うの世界の端っこの方の、目障りな出っ張りが一緒に削られている感覚はあるのだけれど、それは今は定かではない。いつもこんなものなんだろう。すぐ目の前をあっちとつなげようとするとそのつながりは見えなくなるから、一度そのつながりの矢印を上空のもっともっと高いところに向って放り上げる。そして、放ったことを忘れた辺りの思いがけない場所に、それが着地する。そうやって、つながるはずのものは、きっと自然につながるようにできている。だから、ただ、今は目の前のできることを集中してやればいいんじゃないのかな。

空のずっと上の高いところに向っていく放物線をイメージしたら、一つの思い出が零れ出た。

6年くらい前に、プラハで某アート展に参加してた時に、カザフスタンから来てたアート・グループと知り合いになった。面白いおっちゃんたちで、会場の一角に絨毯を敷いて昼寝パフォーマンス? をやったり、大量の肉入り米料理を作って、皆に振る舞うパフォーマンスをやったり、突然入口辺りで倒れていたり(倒れパフォーマンス)、かと思うとシャーマン姿でどこからともなく出現して見たこともない楽器を鳴らし歌を歌ったり、都会からやってきたアーティスト連などとは全く違う次元で行動している不思議な人々であった。

私はなぜかこのおっちゃんらに気に入られ、特にリーダーであるらしき一番年輩のおっちゃんにやたら気に入られ、仲良くしてもらった。誰が聞いていようといなかろうと日本の笛など笛吹き童子風にひゃららと吹きつつ歩き回ったりなど、やたらストイックなパフォーマンスを毎日淡々とやっていたのを、おっちゃんはじっと見ていたらしい。大量の米料理の振る舞いパフォーマンスの時に、忙しくて食べにいけなかったら、おっちゃんがわざわざ私の展示のところまで逆さにした鍋の蓋にゴハンを乗せて持って来てくれた時には、かなりカンドーした。

おっちゃんらとはほとんど言葉が通じないので、身振り手振りで「え?」「ああああ」「ん?」「ほおお」「笑顔」「笑顔」なんてやりつつ、でも結構通じ合ってしまうのが不思議だった。その年輩のおっちゃんが、シャーマン姿である午後私の前にすっくと立ち、こう言ったのだ。「あなたと私は空の上の方でつながっているよ」と。

正確に言うと、おっちゃんは身振りとカザフスタン語と、ほんのちょっとの英語の単語を混ぜて、上空のもっとずっと高いところを果てしなく指差して、どうやらそう言ったらしいのだ。でも、おっちゃんらと私の間にはまさにそのような関係があるような直観があったので、「そうそう(笑顔)」とかしっかり頷いておいた。

アート展の最終日、もうちょっとでおっちゃんらの絨毯に簀巻きにされて、カザフスタンに連れて行かれそうになった。俺たちのグループに入れてやるなんてまで言ってもらって、一瞬「行っちゃおうかな」なんて思ったりした。なんか不思議な、言葉がなくてもいいような場所でのつながりで私たちは出会ったらしく、それはどうやら空のずっとずっと上の方らしいんだけれど、その透き通ったつながりが何度考えてもやっぱり不思議で、カザフスタンというところに一度行ってみたくなったのだ。

その後おっちゃんらには一度も会ったことがないし、何しろおっちゃんらは遊牧民族らしいので、どこに行ったら会えるのかもよく分からない。でも、たぶんやっぱり空の上のまた上のつながりは、途切れてはいないんだろうな。決して二度と、あのおっちゃんらにこの世界で会うことはないのかもしれないけれど、それでもつながりの放物線の向こう側に、耳を澄ませば、いつでもおっちゃんらの笑顔がほっと浮かんで来る。