ゆるゆるっと滑ってカチン

晴れてたと思ったら、ちょっと雨。そして止んで曇り。C橋の袂に随分前に出現した「巨人の手」の指先からは何やら白い煙が発生して、風に吹かれて東から西に靡いている。煙が出ているのは薬指の先だけ。何なのだろうこの構造物。一種の地下鉄であるカナダ・ラインの駅の近くなので、何がしかの関連があるんじゃないかと思うのだけれど。窓からの視界に煙突とたなびく煙。いきなり景観が損なわれた感もあるのだけれど、これはV随一のキネティックアートである、と信じることにしよう。数日観察してみたところ、毎日別の指先から煙が出ているみたい。2本の指先から一緒に出てる時もあるみたい。何なのだろう。何なのだろう。オリンピック村のすぐ近くなので、来年のオリンピックの映像なんかにこの手がちょろっと映り込むはず。もし鉄人28号の指先から煙が出てるようなのが見えたら、それがVの巨人の手なんである。

オリンピックと言えば。開催まであと90日ということで、チケット販売の第三弾が本日。本当は一週間くらい前に発売されるはずだったんだけど、インターネットのシステムがうまく動かなくて、急遽11月14日に発売が延期された、なんていうニュースをたまたま目にしたんである。

オリンピックなんて別にどうでもいいや、と長い間思っていたのだけれど、まだ間にあうよ、と悪魔だか天使だかが囁いて。突然今朝その気になって、インターネットにアクセスしてみた。

このチケット販売サイトは、オリンピックのために特別に開発されたものらしく、サイトにアクセスするとまず「バーチュアル・ウェイティング・ルーム」というところに辿り着く。仮想の待合室にポイと放り込まれちゃうのだ。そしてそのどこにもない部屋には30から1までカウントダウンするストップウォッチが貼付けられていて、この時計が1からまた30に戻る瞬間にページがリロードされる。「皆に平等になるように、この仮想待合室システムを作りました。この部屋にいる人からランダムに選ばれた人がチケット購入ページにアクセスできるようになります」とある。だから「発売開始の10時より前にこの部屋に来てもムダです」みたいなことも書いてある。とりあえず、でも、10時きっちりに仮想待合室に入室。後は、コンピューターのシステムが私を選んでくれるのを待つだけ。

入室した順番も抽選に反映されるのかな、と最初はなんとなくそう思っていた。最初は。最初の1時間くらいは。いや、最初の2時間くらいは。でも、30から1までのカウントダウンは永遠に繰り返され、別世界はいつになっても出現しない。列を作っているのだと思っていたけれど、これはどうやら列ではないらしい。平等ということは、3時間前に入室した人も3分前に入室した人も、平等の権利を持つということらしい。それって平等か? 平等って、そもそも平等って何? などと突然襲って来た流星群に打たれて、概念のブラックホールに超速で吸い込まれながら振返ると、見えない部屋の中で見えない貧乏揺すりをしている自分の姿がちらっと見える。何しろ、この仮想待合室は見えないので、一体何人の人が部屋にいるのかも全く不明。5人かもしれないし、500人かもしれないし、5万人かもしれない。その宙づりの状態で自分の名前が呼ばれるのを待つというのが、こんなにも心細いものであるとは知らなかった。

そして。本当はさっきから私一人しか部屋にいないのに、知能を持ったコンピューターが「ちょっと焦らしちゃえ。人間め」なんて意地悪して、さぼって名前を読んでくれないのかもしれないし。私は誰も知らない理由によって、いつもハズレくじを引くグループに最初から入れられているのかもしれない。カフカだな、これは。「平等ですよ」と表情のない官吏は繰り返し言うのだけれど、その平等の平等さを確かめる術はここにはない。不条理というのは、それに対して闘おうとする者の生命力を吸い尽くす。あがけばあがくほど身体は消耗。考えれば考えるほど同じ迷宮のぐるぐる巡り。何しろ相手は迷宮の形を刻一刻変化させているかも知れないのだもの。この脱力感と疲弊する感じは、今回が初めてじゃないような気がしてよくよく味わってみると、ああ、そうか、世界というのは、人間の社会というのは、多かれ少なかれこの仮想の待合室のようなところなのかもしれないな、とようやく気づいた。

そうこうする間にも、人気競技は次々と売り切れて行く。狙っていたのはフィギュアスケートとスピードスケートだったのだけれど、4時間くらいが経過した頃に、それらのチケットはもちろん全て売り切れ。あーあ、と溜息をついてみても、ガオーなどと叫んでみても、目に見えない誰か別の「ラッキーな」人たちがザザザっと楽しい競技を攫って行ってしまったのだから、仕方がない。

ここで諦めて、静かな土曜日の残りを楽しめばよかったのだけれど。ここまで来ると、名前をとにかく呼ばれないことには気が済まなくなり。というよりも、ここまで私の土曜日を翻弄している不可視のシステムを最後までどうしても見極めたい。この待合室の先には何があるのか。どんな顔が次のページに現れるのか、見るまでは今日は寝ないぞ。と。さらに待つ事3時間。おお、3時間! 待つということがいかにストレスを高める行為であるかということ、がんばってもなんとかならないことや、箱の中身が見えないシステムに身を任せねばならぬ局面というのがいかに人間を狂気に導くかなどを人体実験により検証。体内にイガイガした不出来な金平糖形の目つきの悪いストレスどもが堆積してゆく。そして。遂に。

遂に7時間を経て、コンピューターが突然「はい、どうぞ」の一言もなく、次の画面にペラリと移行。心臓止まるかと思った。

フィギュアもスピードスケートも売り切れの今、これしかない。と私は購入ボタンを震える手で押した。その間にも冷酷なシステムは「12分以内に購入を完了しないとキャンセルになります」なんて脅して、こっちの血圧の上昇に追い打ちをかける。残り時間4分32秒。急がねば。時間がない。ああ、また入力ミス。なんだかコレ、いつか見た悪夢の断片みたい。ああ、また入力ミス。落ちる砂時計。早くしないと、ダイナマイトが爆発する。世界が吹っ飛ぶ。と、気分はもう007。

爆発は阻止した。世界平和は保たれた。システムは攻略した。地球は同じ形で宇宙の真ん中に浮いている。長編の哲学不条理SFスポーツホラーサスペンス社会派コメディ悲劇を読破したような、しかしどこまでも無為で徒労の一日はこうして終わった。

そして、満身創痍で疲れ果てた私の手に握られていたチケットは。
「女子カーリング
はは。カーリング。あれほどC国らしいスポーツはない。それをVオリンピックで見られるなんて、素敵だ。と、私の心は氷の上をゆるゆると滑る石に乗っかって、ちょっとだけ楽しくなった。
ガンバレニッポン。