次回は数と仲良しに生まれたい

今日は晴れ。久しぶりの晴れなので、浮かれる。でも、ここのところ、ちょっと困っていることあり。水が濁っているのだ。Vでは冬になると、時々水道の水が濁る。なんでも、雨が続くと貯水池に土砂が流れ込んで、それが原因で街の水が濁るのだということなのだが、それにしてはまだ時期がちょっと早い。どうやらウチの前でずっと前から行われている下水道工事のせいらしいんだけど。夏前からずっとやっていて、掘り返したり埋めたりを繰り返していて。いよいよパイプを取り替えるとか、そういう段階に来て、おじさんたちが中空の巨大なパイプをあっちに運んだりこっちに運んだりしているのを見たけれど、「本日X時よりX時まで、水が濁ります」などというお知らせもなし。そして濁り続ける水。飲んでもいいのかな。でも、勇気がいるよ、この水をぐいと飲み干すのは。

というわけで、水道水はしばらくもう飲んでない。料理する時もちょっとためらう。そしてお風呂に入ると後悔する。お山のてっぺんの小さな池の中で泳いでいるおたまじゃくしの気分。こってりどよよん。栄養たっぷり。と思えば、それほど悪くもないが。水というのは全てを洗い流してくれるどこまでも透明で混じり気のない液体であって欲しいわけで。でもこんな当たり前のことも、水のもっと貴重な場所であれば、飲める水、体を洗える水があるだけで幸せなわけで。と思えば、濁ったVの水にもそれほど目くじら立てなくてもね。とはいえ、こちら2010年冬期オリンピック村から徒歩5分。急げよ工事! 間にあうのかな。まだあちこち掘っくりかえしてるよ。

哲学に混ぜて一緒に買って来た本を読む。久々に、美しい物語というものを読んだ。わたしわたしわたしと連呼するような話でもなく、世界の切り傷の傷口パックリを晒して見せて、痛みを押し付けて来るような話でもなくて。世界は痛い場所かもしれないけれど、その痛みをそのまま伝えることが世界を伝えることにはならないんじゃないかな、とよく思う。痛くて苦しくて暗いのが現実だとしても、そこから美しいものを蒸留して抽出して見せるのがアートの役割なのだと、そんな風に思っている。痛みから透明な光の欠片を取り出して集めること。その作業を休みなく繰り返すことで、ちょっとずつ光が増えていく。ほんの、ほんのちょっとずつだよ。その作業は結構根気がいるし、疲れて手が痺れて止めたくなる時もあるし、痛みなんて痛みのままでいいじゃないか、その方がみんなドキっとして、ひゃっと目を背けたくなるようなショックを受けて、えげつないほどの剥き出しさが心をまたざっくりと斬れて、その痛みが痛むから痛みをあなたも理解できるでしょう、なんて。そういう方法でゆく人もいるのだけれど。私はもうちょっとジタバタして、透明な光を追いかけてみる。そのまま強烈に痛いものは、心の深いところ、軽いところ、笑っているところ、スキップするところには絶対に届けないような気がするから。

さて。どうやら人が不死を獲得するあたりの透明で懐かしい領域へ導いてくれるらしいのがこの本。

博士の愛した数式

博士の愛した数式

数学というのは、昔からとても苦手で、80点満点の試験で14点とか、そんな点を取って思わずひゅるると旅に出たくなったり、生まれて初めて100点を取って舞い上がっていたら、数学の先生に「君の100点は100点ではない」と言われて口がヒヨコ形に尖ったり、どうやっても数学と仲良くなれなかった。私の数学(算数)の答案はものすごく汚かった。答案の裏までびっしり、仮計算の式が縦横斜め逆さに踊り、答案の周りにも、自信のなさそうな計算式が書いたり消したり繰り返した挙句に半分くらい消えて残っていて。100点が100点でないといった先生は、そうした私の数学的センスのなさを完全に見抜いていたらしい。答えだけ合っていたので、仕方なく100点をつけなければならなかった先生は、きっと数学的美と私の汚らしい答案用紙の間で苦悩したのだろうな。時間をかけて全ての問いに適応できる方程式を一つ考え出すよりも、1から無限までの数字をひとつひとつ当てはめて、当てずっぽうに答えを探していくような生徒だった。ちなみに今でも数を数える時は指を一本ずつ折らないと数えられない。世界の中で生きて行く時も、いつも1から無限数を当てはめる方法でゆきあたりばったり。そうやっておもいっきり時間と労力の無駄しながら生きて来たみたい。あの時、数学の先生が噛んだ下唇の意味をもうちょっと真面目に考えていたら、もうちょっと鮮やかに世界を割ったり駆けたりできていたかもしれないな。