ここの美しさとあそこの美しさの関係

曇り。昨日も雨だったので、このちょっとした晴れ間は嬉しい。バロック音楽聞きながら、ラッコが朝焼いたマフィンを食べる。(Vではラッコがマフィンも焼くのだよ)バナナマフィンはバターではなくてオリーブオイル入り。しっとりと香ばしくて、すぐにお腹の中に収まった。これからラボに降りて、小さいものたちとしばし戯れて来よう。

今日はひょこっと突然、美しい生活について考える。私がこの北の果てで美しいことを考えていようが、醜いことを考えていようが、世界の大勢に関係ないんじゃないか、と思う日もかつてあった。実際、一人一人が今日何を考えているかを測る目盛りは世界に取り付けられていない。そして、世界全体がどのくらい眠いのか、楽しいのか、面倒くさいのか、腹が減っているのか、途方もなく疲れているのか、といったことは、重要なことであるようにも思うのだけれど、それが一目で分かる目盛りも世界にはついていない。仕方ないので、株価の上り下がりだとか、ニュースの見出しだとか、そんなので取りあえず分かったような気持ちになっておくくらいしかできない。

ここで私が今日一日美しいことを考えて、美しいことに触れ、美しいことを創り出そうとする三時のお茶に、美しく美味しいマフィンを食べることと、向こう側の見えない遠くの裏側の椅子に座っている誰かが同じように美しい一日を送ることとの間に、繋がりがあるんじゃないかな、と、なんだかそうなんじゃないかとフと少し思う。いや、本当は、確信している。花を三秒見る。上空を3分見る。雲のもわもわした隙間からちょっと薄水色を見る。その切れ目のところから、声を超えた声がそそっと入り込み、カナダグースの背中の和毛に乗ってもっともっと上へ。そこから繋がった赤い糸や木の花の綿毛や光る星の粒子がぱあっと広がって、それがあっちにもこっちにも降る降る。そうして、お味噌汁を一口飲み干す朝の誰かの中にそっと入り込む。ほへ。ほへへ。裏側の、その人だっても忘れていたような場所をこそこそと触れる細く軽やかなもの。ほへ。ほへへ。と、その人はちょっと口元を歪めて笑いそうな顔の筋肉の動き。テレバティックな拡散。何かの予感。

世界の中に美しいものが足りなくなったら、それを製造する任務がある。美しさは醜さを駆逐する。出て行け、汚いものたちよ。でもそれは排除しても排除しても、入って来る。どうやっても、窓を閉めても、鍵を掛けても、カバンのチャックを急いで塞いだって。グラスを手でささっと覆ったってね。ただ、一カ所だけ、入り込めないところがある。その場所に、美しいものが日々補充されますように。