心の中が丸見えです

今日は久しぶりに晴れ。やっぱり晴れると気分も晴れるなあと、窓の外を見ると、ダウンタウンに向う橋の上を人がたくさん歩いている。普段は車が走っているところにも人、人、人。どうやら今日は地球温暖化防止デーという日で、デモ行進みたいなものが行われていると分かった。

朝から地球のために歩く人々を窓からボーっと見ているだけの身としては、地球温暖化防止に何か自分は貢献してるのかしら、と肩身が狭いけれど、考えてみると、普段引け目に感じてるような事がはからずもエコに貢献してたりしていることに気づいて、フと笑う。ペーパードライバーなので、自動車を運転できず、結果としていつも歩くか公共の交通機関を使用。そして、基本的に貧乏性なので、そもそも「無駄遣い」できないこのしみったれ体質。本を読むと、すぐに古本屋に売って30円くらい稼ごうとするし。ものすごくせこくて嫌になるけれど、それを「エコ」と呼んだ瞬間に、なんだか自分自身がちょっとステキに見えるではないか。しみったれじゃなくて、エコです、エコ。生まれつきものすごくエコな体質なのだ、とこれからはそう思うことにして、地球人として胸張っていこう。

数日前から、俳句が浮かぶようになった。寝入りばな、起きがけなどにやたらに脳が活性化して句を捻りはじめ、仕方なく起き出してノートに書き付けるので、どうも寝不足になるのが困りものなのだが、昼間見たものが寝ているうちに消化されて、ポンと出て来たりするらしい。

とにかく俳句は写生だというので、なるべくその日見たり感じたりしたことだけを書き留めるようにしているのだけれど、どうも季語というのがまだよく分からない。日本から送ってもらった「歳時記」をめくりながら「へー、ふーん」などとやってるけれど、当たり前のことではあるが歳時記というのは日本の四季や自然から生まれているので、ここC国の自然や風物には当てはまらない言葉が結構ある。逆にC国にあってJ国にない風物に関しては、当然それに該当する季語がない。メープルを「楓」と書いた途端、あれっ、ちょっと私ウソついたかな、という気がしてしまうこの感じ、なんなんだろう。

あちらにいても、こちらにいても、同じ自分のはずなのだけれど。このちらりと入り込む違和感が、外国人として自分の母国とは別の場所に住むということなのかな。普段英語でモノを考えているとは思わないけれど、スーパーでshimeji mashroomを見つけた時、花屋に並ぶ菊の鉢が何やら眩しい時、「カリフォルニア産」と書かれたコシヒカリの新米をよっこらしょと買って来る時などのカンドーは、J国で触れる「湿地茸」「菊」「新米」とは感動のツボがちょっと違うんだな、どうも。望郷のフィルター、記憶のフィルター、異文化のフィルター、翻訳のフィルター、私は誰ここはどこフィルターなどなど、やたらいろんなフィルターがかかって、思い入れの角度がどんどん深くなってゆく。

俳句を作ると、心の中身が見える。ずっと鍵がかかってたところがパカっと開いて、あらら、中身が丸見え。ああ、こんなふうに糸が絡まっていたのか、こんな青や桃色のフィルターがいつの間に発生していたのか、などと、気づかなかったことに気づかされて、結構唸ってしまうのだ。やたらでかくてバッサリと落ちて来るメープルの葉を楓を言い換えずに、このバッサリ感を伝えるには...、ぬるっとアザラシのカンドーはどうやったら伝わるのか...、カリフォルニア巻きはどうやっても575に嵌らないぞ...、などなど、V流俳句の可能性をちょこっと模索しつつ。