『新「親孝行」術』

髪型が似ているせいだろうか、みうらじゅんには何故かしら親近感を感じる。そして彼にはこれまで何度も人生「もうだめか!」という瀬戸際で、命を救われて来た。深刻な(とその時の自分は思っていた)人生の闇の中に一本の線が伸びている。平均台だ。その上をつま先立ちで進むのだが、風が右から左からものすごい勢いで吹いて来るのだ。あぁ、落ちる。もう駄目だ。下に口を開くのは無限の闇。いわゆる奈落の底というやつである。ここで諦めたら「終わり」なのだろうか。そんなことをこれ以上のマジさはないというくらいの口一文字のマジさで考えて呼吸が止まりそうになった時に、みうらじゅんが観音様の姿で現われで言ったのだ「それって「終わりプレイ」なの?」と。

するとそれまでド真面目に苦悩していた自分が「終わりプレイ」を楽しんでいただけにすぎないことに気がつき、フと見れば細い平均台の下にはフカフカのクッションが敷かれている。「なぁんだー」と思わず笑ってしまう。真っ暗だった空間にジュワン、ジュワンと音をたてながらスポットライトが灯る。そっかー、これは人生というプレイに過ぎなかったのか。ヒューッ。あんまりマジになっていたので、そのことに気づかなかった...と冷や汗を拭うのである。

如何なる才能か分からないが、みうらじゅんという人は世界をぐるっと回転させる術を知っている。悲痛なもの、恐ろしいものは笑っちゃうもの、カワイイものに取って代わり、苦悩に満ちた世界はプレイに満ちた遊び場と化す。ここまで持ち上げていいのかどうか分からないけど、彼の思考には人類の知性の極みを感じる。(やっぱりそこまで言う必要はなかったか)尊敬する人物と聞かれたら、迷わず「みうらじゅん」と答えよう。明日には政治理念を変えちゃう政治家などの名前を答えておくよりもずっと安心。なぜならみうらじゅんはたぶん死ぬまでみうらじゅんであり続けるでしょうから。

と、なんとなく世界がつまんなく見える日にVのBook Offでみうらじゅんの『新「親孝行」術』なる本を購入。どうやらこの本は現在は絶版となっており、代わりに『親孝行プレイ』という本が出ているらしい。しかも安売りコーナーで$2で売られている。こんなお宝がたったの$2! しかも更に20%オフセールをやってるって? それじゃほとんどタダじゃないか。タダで人生の栄養補給。素敵すぎる。即買い。

さて、みうらじゅんにしては硬めの雰囲気のこの本は、親孝行を「プレイ」と考えて、様々な実践テクニックを解説している「学術書」。これを読みながら、実は家族というものはほとんど「プレイ」で成り立っているのかもしれないということに思い当たる。「末っ子プレイ」とか「雷おやじプレイ」「長女プレイ」とか「好々爺プレイ」など。そして更に、人間はプレイする動物であるというもっと大きな命題が浮かんで来る。プレイ=遊び。プレイ=演技。人間は常に演技し、常に遊んでいる動物なんじゃないのかな。そういえば、生まれてこのかた、ずっとずっとプレイし続けているような気がして来る。

パフォーマンス〜などというものをアートの名の下にやったりするようになってから、いつも悩まされたのが「舞台の上でも日常でも、ぜんぜん変わらないね」と言われること。そう。日常が既にパフォーマンス(プレイ)化しているために、舞台に上がってもやることが全くない。結果として「なーんだ、いつもと同じか...」と観客をがっかりさせてしまう。日常と同じものにお金を払わされた観客は「損した!」とぶーたれる。そしてまた、人生そのものがパフォーマンスとなってしまったために、作品としてのパフォーマンスが際立たず、「あんたは結局何も作ってないんじゃないの?」としばしば言われてしまう。うーむ、人生は作っているのだが。かといって、それが作品ならば誰でも作品を作っていることになり、アーティストだのと言っている意味がなくなってしまうし...。

とまあ、それはともあれ、親孝行。親孝行しなきゃと思うがどうもうまくいかないという人は、この本を読んで学ぶべし。どうやると親子川の字でまた眠れるかなどという秘技の数々が書かれている。まだ手遅れではない、今すぐ始めよう親孝行。またいつかそのうちに、は親孝行ではタブーなのである。

新「親孝行」術 (宝島社新書)

新「親孝行」術 (宝島社新書)