緑のタイツ

今日も曇り。寒い。書き物。夕刻、カナダ・ラインに乗ってダウンタウンへ。久々の映画宵。地下鉄(らしきもの)に乗って映画を観に行くというだけでなんとなく興奮する。徒歩でもなく、バスでもなく、車でもなく、地下鉄(らしきもの)へと階段を駆け下り、やたら蛍光灯の明るい車輛が滑り込んで来るのに飛び乗り、次の駅で飛び降り(次の駅で降りちゃうところが、なんとなく消化不良ではあるが)、階段を駆け上るとそこはダウンタウン。よし、今夜は街と呼ばず都市と呼んでやろうではないかVよ。

目指す映画館は、商業映画館ではなくて、V市国際映画祭の中心となっているシネマテーク系のシネマ。会員にならないとチケットが買えない方式になっている。銀行がスポンサーになっていてシアターに銀行の名前がついているので、うっかりすると銀行だと間違えて通り過ぎる人もいる模様。土曜日夜の上映なのだが、人影は少ない。ここの映画館が満席になるのを見るのはV国際映画祭の時だけである。今日もずずずっと見渡しても、観客は30人くらいかな。ここの映画館は椅子のクッションがやたらに分厚くて丸っこいので、うっかりすると寝そうになる。

本日の映画はトルコの映画監督ヌリ・ビルグ・ジェイランの『Three Monkeys』。カンヌで監督賞を取った映画らしいのだが、ものすごい重さ。どうにも救いようのない重さ...(良い意味で)。忍耐強い長回しも凄いけど、人物の顔の上下が切れそうな程のアップも凄い。顔のアップってチャチになりやすい難しい映像の一つだと思うんだけど、登場する俳優さん達の顔の情報量がこれまたもの凄い。皺シミ無精髭汗、いろんな肌理が語りかけて来る。映像美で知られる監督らしいのだが、ここでいう美というのは、プォトショップでつるつるにした化粧美肌などというものの対極にある美。存在の重さと軽さが画面の向こう側からスクリーンを切り裂いてこっちに「え、どうなの、どうなの、どうしてくれるの!」と攻め込んで来るような迫力あり。

そして、サウンドトラックが良い。感情をなぞるような感じで入って来る音楽がほとんど使われておらず、ストリートノイズや荒い息音なんかがそこら中に散りばめられている。その抑制した音使いの結果として、ものすごい痛みが音を通じてこっちに伝わって来る。この前見た『The Hurt Locker』もそうだったけど、音楽を安易に使わない映画に最近よく出会うのが嬉しい。映像がいくら凝っていようと、物語が優れていようと、俳優の演技に度肝を抜かれようと、サウンドトラックの出来が悪いと私の映画時間はサーっと醒めてしまうのだ。そして、世の中のあまりにも多くの映画が音楽を感情の奴隷として使っているので、奴隷化された音がとっても苦手な私は、映画館の闇の中で「あぁ...ぁ」とかいう残念音を人知れず出すハメに陥ることが圧倒的に多いのだ。日本映画にも多いです、この「あぁ...ぁ」。結構いい線いってるのに、なんでここにこの音楽入れちゃうんだぁ〜...と謎を超えて怒りを覚えるような映画にもよく出会う。音は映画世界の中では、まだまだその存在の本質をマジメに扱われていないんじゃないかな、といつもそこを不満に思う。やっぱり視覚の方が強烈なんだろうな。そして、視覚にくっつける音というのは、どうしてもクリシェなところに落ち着くことが多いのだ。

映画を見終えて外に出ると、とっても寒かった。もうコートが必要な季節がそこまでやってきている。でも、まだかろうじて爽やかな夜。スカートの短さが尋常ではないグリーンタイツの女子が、男子と抱き合ったりキスしたりしながらエスカレーターを上って行くのを目で追いつつ、秋の夜は更けて行く。