V図書館読み切り計画:014『斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 他七篇』

小説って何なのか、いつまで経ってもよく分かんない。アートって何なのか、よく分かんないのと同じ。私はそれ程の読書家じゃないし、古今東西の名文学を読み尽くしたなんてのには程遠い。父親がなんだかほとんど病気に近い読書家で、家に恐らく何千冊という単位の文庫本があった割には、子供の頃はテレビばっかり見てて、本なんてチッとも読まなかった。文庫本の他にも『世界児童文学全集』なんてのや、『日本文学全集』なんてのも本棚にズラリと並んでいた。『世界児童文学全集』の方は、たぶん親戚からお下がりでもらったもので、その当時既にページが黄色くなっていて、開くとやたら黴臭くて閉口した。黴との闘いに打ち勝って読み終えたヤツの中でよく覚えてるのが『トム・ソーヤの冒険』。あれを読んで、無性に冒険したくなり、冒険好きの少年のハートが入り込んだままで大きくなって、そのハートの赴くままにボーケンしてたら、いつの間にかこんな遠くまで来て帰れなくなってた。

しかも私のボーケンのイメージは、そのまんま筏に乗ってフラっと行くやつなので、始末が悪い。何の計画性も、目的地もなく出発。あれよあれよと言う間にどんどん流されていっちまった。と、ここから得られる教訓は、「お母さん、子供に何を読ませるかは重要です!」ということになる。ただ、何をもって人生の成功失敗とするかの基準がないので、何をもって良書とするかは判断困難。本の中の冒険を本気にして、無謀なボーケンに漕ぎ出してしまった私のような例だって、失敗ばかりじゃなかったわけだしなあ。冒険心がそそられて良かったのやら悪かったのやら。それは最後んとこまで旅を続けてみないと分かんない。

『日本文学全集』の方は、高校生くらいの時に、勉強モードで時々読んだ。でも、谷崎潤一郎とか三島由紀夫とか、ページを開いた途端に金色の装飾模様が立体的に攻めて来て精神をがんじがらめにするようなアブない小説にはあんまり手を出さなかった。髪の毛を逆さにしたお椀みたいな形にカットしている少女であった私は、「こういうのは、もっと後に食べようっと」ととっといたのである。今思うと、もうちょっとそういうアブない本をとっとかずにあの頃食べといたら別の人生があったんじゃないかと思う。当時、お椀カットで包まれた脳が許容したのは島崎藤村とか夏目漱石とかその辺りであった。

その後、お江戸に出て、あれこれ揉まれているうちに、お椀がちょっと変形したり、長くなったり、海草みたいなウェーブがかかったりした辺りで、少しまた文学に興味が沸いたのだが、今度は稲垣足穂だとか尾崎翠だとか、夢野久作だとか岡本綺堂だとか、そっちの方へ行ってしまった。

その頃は能楽趣味にハマっていたので、泉鏡花の世界なんかにも憧れた。

なんてことをやってるうちに筏に乗ったボーケンが始まり、流れ着いたF犬街では他に本がないという理由で三島由紀夫を何十回も繰り返して読み。その後、V市に来てからも小説を読もうなんていう気持ちにはなかなかならず、ノンフィクション系の本ばっかり読んでいたんだけど。

小説って、どうもやっぱりよく分からないので、でも時々、覗いてみたくなる。

というわけで、こちらもこれまでそれほど読んでなかったこの方の本。

斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

小説というと、作者という人が小説世界をあれこれ小細工しながら構築して見せる藝という感じで、作者と作品の間にある距離みたいなのがいつも気になってしまう。この距離に何がしかの不純さやあざとさがあると私は一遍にしらけてしまって、読む気を失う。太宰治の小説というのは、この距離感がものすごく小さい。もちろん、物語世界を作家が緻密に構築してはいるのだろうけれど、その文章の、言葉の、行間の、「、」と「。」の余白の、ありとあらゆる隙間や細部に、作家その人自身の肉体の欠片、溜息の湿り気、精神の苦痛、魂の叫びのようなものが刻印されてしまっていて、それは虚構であって、虚構ではない。耳元の辺りに、いつも彼がいる。そして、その至近距離から囁いて、呻いて、叫んでいる。小説の世界を信じる信じないなどという話ではなくて、苦悩苦痛そのものを書き留めることに彼は成功したのだからやっぱり凄い。小説というのは、今もってして何なのか私にはよくわかんないんだけど、こういう小説は信じられる。熱さ冷たさ(世界の、心の、闇の)がぐわわっと伝わって来るもの。

前に読んだ事のあるのもあったし、初めて読んだのもあった。『富嶽百景』という短編の中にある「人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他愛なくゆるんで、これはおかしな言いかたであるが、帯紐といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と逢って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶祝である」という部分、特に好き。前から、この全身ユルユルゲラゲラ笑い現象(それは、世界がぐっと私を抱きしめるそんな大好きな瞬間なんだけど)って一体何なんだろうーって、不思議に思ってたんだけど。太宰治が言葉にしてくれた。こうした、どうでもいい(だから一番素敵な)宇宙の不思議な一瞬の煌めきを言葉にしてくれる人が本当の作家なのだろうな。