アートの前と後

今日も暑かった。トマトは真っ赤。もう一日待って、明日収穫決定。とはいえいわゆるプチトマト一個なので、一体どうやってこれを賞味してよいのか、結構悩む。やっぱりそのまま食べるor塩ふって食べるしかないだろうな。

今日は午後からアート系イベントの打ち合わせ。というか、V市でアートイベントを企画している女性と、単に会っておしゃべり。なかなか面白いことを企画している人で、話盛り上がる。V市にいると、どうもラボに籠りがちで人と積極的に会ったりしないので、久々にそういうことをして、楽しかった。こうやってアーティストと会ってアート話などしていると、アートって何だろうっていう根本的な疑問が、また蘇って来る。アートって、まあ、一見世の中になくてもいいようなもので、別にそれがないから飢え死にするというようなものではないのだが、やはり社会に何がしかの影響を与えているらしい。特に今日出会ったKさんは、観客参加系の作品を手がけているので、そういうことをよく考えるらしい。アートの前と後では、(もちろんアートの種類にも質にもよるだろうけれど)人間の中の何かが変わると、彼女は感じているようであった。

私も昔、そういう強烈な体験をしたことがある。観客参加型の作品をプラハでやった時。これは観客が全員参加するという(誰も傍観者がいないという)作品だったんだけど、観客の中の半分くらいの人は1時間半くらい目隠しされてそこら中連れ回されて、スペクタクルは何にも見ることができないし、残りの半分くらいの人は目隠しされてる人をガイドし続けなければならない、という極端な状況であったにも関わらず、どっちの立場の人も何か言い様もないくらいのものすごく深い体験をしたらしいのである。

こっちが企画しておいて「へー、そうでしたか!」というのも変な話だけれど、こちらの企てを遥かに超えて、観客の間では何かが起こっていたらしいのである。この「何か」とは何か。

たぶん、本当のコミュニケーション、本当の出会いのようなものが起こっていたのだ。
生の出会い。この魔法の瞬間を起こせるかどうかが勝負。アーティストはあれやこれやと緻密にデザインして、出来事が起こるような仕掛けと場所を作る。そして、後は観客がその中で「生きる」ことをそっと傍らから見守るだけ。うまくいく時もあるし、狙いが外れることもある。観客参加は生ものなので、全く同じことをやっても、毎回全く違う展開になるのがほとんど。でも、人間の想像力に驚かされ、人と人とがつながることの原風景みたいなものを何度も目撃してカンドーした。そんな瞬間を生み出せるとしたら、アートってのも捨てたもんじゃないんじゃない?

なんていう話をして盛り上がった午後。楽し。気を引き締めて、またアートを企もうと頷き合う夏の日。眩しいぜ。

帰りに、近くに優れものの苗木屋があるというので、そこに寄って、またまた植物購入。前から探してたディルの苗。そして、イタリア産テラコッタプランターも購入。これで豆&菜の誘致が実行できそう。ベランダがジャングル状態になる日は近い。