ソージにめらめら燃える

日本に戻ってから初めての、ちょっと静かな一日。どこにも移動せず、何も特別な物を見ず、英語も喋らず、ジャージなんかを着てほぼ半日ぶらぶらごろごろ。外はちょっと風の涼しい晴天。と、朝はのんびりとやっていたが、この家に蓄積している自分あるいは家族の物品の山が気になり始め、正午ごろから思わず知らず、大掃除を開始。なんっつーかなあ。この家の主人は日々とても忙しく生活しているので、家の隅々まで掃除をやったり、物を片付けたりする十分な時間がないのだ。私も昔は掃除なんて大ッ嫌いで、モノを捨てるのが大の苦手。家の中には塵埃、紙屑、廃品物品その他用途不明の品々が所狭しと散乱。足の踏み場もないというのはまさにこの情景を指すのであろうというという日常を送っていたのだが。

それが、最近は「趣味は何ですか」と聞かれると「ソージです」などと真顔で答えたりするようになった。一体これはどうしたことだ。何が起こったというのだ。

説明すると長くなるのだが、古い物やいらない物が私の人生の隅々を埋め尽くし、捨てられない思い出のモノモノモノが私の背丈よりも体積よりも大きくなり、ほとんど息もできないし、明日の方向にあるものも埋もれて見えない、という段階に至り。そう、にっちもさっちも行かなくなっちゃったのだ。重くて重くて、苦しくて。どうにも身動きができない事態がマジにやってきた。それはもう苦しくて、苦しくて。それでも過去のひとカケラも捨てたくなくて。水中と土中と無酸素宇宙空間がミックスされたようなあっぷあっぷな空間をもがいているような何年かを体験してしまったのでした。病院に行ってみたり、スピリッチュアール系の本を片っ端から読んでみたり。風水八卦に凝ってみたり。人生をあっちからこっちまでなんとか見渡そうと試みたり。なんとか呼吸を止めずにこの世界にぶら下がっているために、できることはなんでもやった。そのギリギリの営みの中で、出会ったのがソージとリョーリ。この2つは人生最大の八方塞がりに直面して窒息失速するまでは、全然興味もなく、またそんなことに費やす時間なんてないもんねー、と甘んじていた分野であった。思いっきり下手でした、リョーリ。四角い部屋を丸く掃いてました、ソージ。

何にも生産的なことができないような人生の局面に至った時に、それでもかろうじてやれたことがソージとリョーリだった。リョーリってのは、食べることであるからして、生きていくことと直線でつながっている。どうあがいてみても先には進めそうにもないし、世の中に貢献するなんていうレベルのことは当面できそうにもないので、取りあえず、自分を生かしてゆくことだけを考えようと思ったわけだ。美味しいものを丁寧に作って、花に水を注ぐようにじんわり食べる。そうやって自分を何とかして枯れさせないことだけしかできなかったんだよなあ。とほほ。

そしてソージ。捨てることも、磨くことも苦手だったのだけど、一つ一つ、痛いなあ辛いなあ面倒くさいなあ重いなあしんどいなあなどと思いながらなんとかこうとか捨てたり磨いたりしているうちに、少しずつ何かが軽くなっていって、そのうちソージが楽しくなり、ソージ趣味です。などと言うまでになったのです。いやはや。

と、ソージ歴はまだそれほど長くはないので、ソージの巨匠への道はまだまだ長いのだが、モノが散乱叛乱して反逆の旗を立てて攻め寄せ、部屋の隅っこではなく真ん中にどかんと胡座をかいて威張り散らしたり寝転がったり欠伸したり鼻提灯を膨らましたり。ああああ、こりゃだめだ。という風景を見ると、ソージ心が四方八方から刺激されて、つい自分のウチでなくてもやりたくなってしまうのですソージ。

と、今日もついついやってしまいました、ソージ。居候とはいえ、このウチには自分のブツもたくさんあるので、直接責任もあるしなあ。本日のメインソージは寝室ベッド下ベッド周りの徹底的掃除機がけ&捨てる捨てる捨てる。いやあ、なかなか手強いです。もう何ヵ月も何年も捨てられぬままに蓄積しているモノの地層が、かなりの迫力で迫って来ます。ひい。

そして、この家に数百冊、もしかしたら千冊くらいあると思われる楽譜の整理。いや、すごいな、このコレクション。思わず途中で弾いてみたくなった。バッハとか。ラベルとか。ハチャトウリアンとか。

ついついピアノでポロロオン。なんてやっちゃったりするので、なかなか進みそうにないソージだが、楽し。今回の日本でどこまでソージを完了できるのか。明日もまた、ソージに燃えそう。