温泉が何かを溶かした夜

温泉というのは、不思議なものだ。地中から噴き出したものとはいえ、たかがお湯である。そのお湯が、でもね、何かを変える。温泉のお湯には、細胞の一つ一つに染み込んで、そのDNAの記憶を揺り動かすような力があるに違いないと、ピヨコは勝手に想像する。おじさんもおばさんも、ピヨコだっても、あのお湯に入る時に「ふぅわああー」とか「だああー」とか「ひゅううーん」とか、変な声を出す。あれは、人間の声というよりは、細胞の声だ。細胞が地中に眠っていた太古の記憶に出会って、何かが蘇る音だな、たぶん。

水着を着て入るスパなんっつーのは、つまらないっよねー。細胞と遠い昔の記憶の出会いなのだもの。文明臭い、知的生物ぶったナイロンの皮膜なんていらない。動物が水浴びする勢いで行けば、よい。素っ裸のすっぽんぽんで湯と出会う。無防備な程、よい。お湯と細胞が勝手に対話するに任せておけば、よい。

飛騨のお湯は、つるつるだった。ぬめぬめと言ってもよい。こんなにぬめぬめ&つるすべのお湯も珍しい。仲居のおばちゃんの顔もつるつる。よよっ。美肌効果期待できますぜ、ダンナ。

息子は、なんでも広いスペースで、素っ裸になって、お湯をザブザブ使いながら体を洗ったり、ヒゲを剃ったりするのが楽しくて嬉しくて仕方ないらしい。スポーツクラブのシャワーではなぜか裸OKなのに、決してお風呂では他人に裸を見せない西洋人。(ハンガリーノルウェーなど一部の地域にお風呂&サウナ文化などがあるが、一般的には温泉ってのは水着着用の温水プールみたいになってる場合が多い模様)いわば個人主義のシャワーの中に日々閉じ込められている西洋人。日本の温泉は、このシャワーブースを溶かす。水着を溶かす。あんたの裸とあたしの裸が同じ湯船の中でつながるのがどーしていけないのって、山猿の気分で体を解放する。うひょえーっ。ふひょわー。いろんな声を出して、人に見られるだの、見られないだのって、そんな小さな人間の悩みを超えて、透明で香り高い湯という自然の懐でうんーんと伸びをする。すごいな、温泉文化。日常が、個人が、いつもの私が、あなたが、湯煙と湯船から溢れ落ちる湯の滴りと、清らかな音の中で、溶ける。

そう、昨夜のとーちゃんの顔は、どこか違っていた。

真面目で勤勉で、子供をたくさん育てて、禁欲的で善良で信心深くて。一生懸命西欧社会の中で生きて来たとーちゃん。自分のことよりもいつも家族の幸せを優先してきたとーちゃん。そのがんばってがんばって、きちんと四角くやってきたとーちゃんが、湯の中で、思わず溶けた。結婚記念50周年。遠い日本の湯船の中で、ホーっと一息。体の力を抜いて。いっいゆっだあああなあっ。と歌いはしなかっただろうけれどさ。大地の底から吹き上げた湯がとーちゃんの50年を包む。ごくろうさまでした。これからも元気でね。

湯上がりのとーちゃんは、なんだかポオオオっとピンク色でした。温泉万歳。