V図書館読み切り計画:011『乳と卵』

卵と牛乳、ということで、これはきっと美味しいパンケーキの作り方に関するほわわんとした小説なのだ、と過剰に期待したのだが、乳は豊胸手術のことで、卵は生理のことだった。というわけで、ふわふわパンケーキの作り方は書いてなくて、蓋を開けたらとっても女、女、また女な小説。

乳と卵

乳と卵

(収蔵日:2009年2月)

と、そもそもV図書館でこの本につい手が伸びたのは、川上未映子というこの作家、女版の町田康みたいな人だと、風の噂で聞いたから。確かに大阪出身っていうところも同じだし、歌手をやってたんだけどそれほどそっちではブレイクせずに、詩や小説を書き始めて芥川賞受賞、大阪弁の口語体が基調の文体っていうところも似ている。一文がずらずらととても長いところも似ている。語り手一人称が強烈に作品の中心にあるところも似ている。ただ、町田康の描く世界がどこまでも肥大する妄想の果てに、Tシャツをぺろっと裏返したように世界が裏返りそうなぎりぎりの線をゆくのに対して、川上未映子の世界は、世界の逆襲すら届かないくらいに徹底的に「わたし」なのであって、この小説にも3人の女性が登場するのだけれど、その全てが「わたし」すなわち作者の延長であることは明白で、わたしというわたしの意識の流れを3つの別の人の形にしてみました、という風情で、小説の登場人物が作家とが切り離されて、人物が丹念に描かれているような小説が好きな人には、ずいぶんと物足りないだろうし、読んでいてきっとイライラしたりするだろう。それにしても、女のわたしってのは、世界を寄せつけないくらい強靭なものなのだなあ、と変なところに感心したりして。

という私は、小説の中で作り込まれた一人一人の人物というのは最初っからあまり信用しない質なので、美人芥川賞作家という美人つきなのでちょっと眉間に皺寄せて読み始めた割には、案外嫌味もなく読めてしまって、ぬらぬらとした凹凸がありながらも鋭利な角が全くないような、正に女体のような文体のうねりに身を委ねて、さらさらと読了。確かに、何らかの文体があります、ここに。香りがあります、この文体。そこが良い。で、このうねうね感、柔らかな女体感はどこから出て来るのだろうか、と振返ってみると、どうやらそれは文体の基調となっている大阪弁と関係があるらしい。というのは、この本には表題作の他に短編が一つ収録されているんだけど、こちらの方は、標準語で書かれているので、うねうね感が全くなく、それでも文体というかリズムというかを創り出そうと無理に試みているので、むしろ断片的で技巧的なエッジが目立って、あんまり気持ちよくない。やはり言葉は人、人は言葉なのだなあ。日々大阪弁で思弁している人は、その言語を使用することで最もよくその体と心とを言葉に注入しうるってことか。それにしても大阪弁ってのは、なんというか、したたかというか、えげつないというか、同じことを言っていても、標準語で書いたのとは比較にならないくらい生臭く、女まるだしで、素っ裸で、それでいて可愛い。

と、地域の気分のようなものをそのまま言葉に乗せていける全国区の方言は羨ましいなあ。東京に出て行った時に、私は自分の方言を捨ててしまった。マイナーすぎて。捨てざるをえなかったんだもの。それと一緒に、自分の中の何かがパチパチと作り替えられて。で、今はさらに日本語さえ通じないところまで遥々来ちゃったから、日本語でできた私の体のぬめぬめ感、納豆ねばり感、餅肌感、木の香感、畳感がどうしても伝えられなくて、あああんとかうううううんとかほうううう(溜息の音)とかいろんな音を発生しながら日々苦悶している。言葉は人。人は言葉。さてどうやったらどこまでも生臭く、どこまでも清浄な体の奥の奥までも言葉に乗せて薫らせることができるのか。

そいがぁてぇ。ばからいね。とうきょういったっけんさあ。わざっとわすれたが。ばかんが。つめてえが。ひょうじゅんごしゃべらねぇと、だめらっておもってたがぁてぇ。ださいっていわれんのが、やだったがぁ。

だめだ。もう私の中の故郷は言葉ともう結びつかなくなっている。本当に、わすれちゃったがーてー。本当に?

I lost my body.
Did I?

さて『乳と卵』。意識の流れをつらつらと丁寧に書き綴って行くだけで、小説というのができたりもするものなのだなあ。伏線もあれば構成もあるし、シンボリズムもあるけれど、そんなのを超えて、この小説のメインはわたしがどう世界を見ているかというところにある。女子ならばとってもおなじみの月経をめぐる出来事なんかがとっても写実的に書いてあったりして、とっても庶民的な内容であるんだが、男子が(おっさん含め)これを読むと、かなり内側外側がこそばゆいような気持ちになり、赤面し、女というものの裸の部分を今更ながら鼻先に突きつけられた思いで興奮しつつも少し幻滅したりするのだろうなあ。この本の表紙には何やら女体らしきアブストラクトなものがデザインされているのだが、このデザイン、秀逸。中に書いてあるものの感覚的な印象の中心にあるものをグワシっと捉えている。中身は何がしか黒めいた赤を秘めたなだらかな凹凸、角がないのにじわじわと息苦しくなるような裸の稜線の哀しさのようなものだから。

感覚のなかなか鋭い作家さんである。時々、世界が密やかな閃光を放つ瞬間の気分の捕縛に成功していて、おっと思わせる。でもぉ、これで芥川賞もらっちゃっていいのぉ? という声が大抵ここで聞こえて来るのだが、どうやらV図書館の所蔵方針の一つらしい「芥川賞受賞作品」をいくつか立て続けに読んでみた結果、芥川賞というものに対するこちらの先入観の方を改めることに決定。今後、「芥川賞=文豪の仲間入り」というイメージを改め、「芥川賞=芥川小説塾入塾許可証」と考えることにした。肝心の芥川氏はもうこの世にいないのであるが、芥川理事長が「まあ、この位ならば、磨けば光るかも...なので、入塾とりあえず許可!」と認めた新入生といういうくらいに気楽に考えて、むしろここから作家修行を押し進めていけるかどうかってのを温かく見守るというスタンスでいく。これで、無用な怒り憤慨などで心を惑わされる心配がなくなる。入塾したけど卒業できないっていう人も多いようであるし。なんというか、宝塚宙組に入団したての新人に、客席からそっと熱い視線を送り、時には手を振っちゃうようなラブなノリで。よしよし、よくがんばってるね、よく育って来たね...などという、親鳥視線パトロン爺視線で。そのくらいのつもりで芥川賞作家というのをもう一度頭に思い浮かべると、かなり気持ちが楽になります。ふうう。よかった。助かった。それにしても、多すぎるV図書館の芥川塾生小説群。ああ、また次もふと手に取ってしまいそう。