V図書館読み切り計画:010『老人力』

おととい、「おっちゃん日和」に浮かされて、中国系のおっちゃん達に包囲されつつV図書館で読み始めたのがコチラ。

老人力

老人力

(所蔵日:2000年8月25日。横浜市中央図書館からの寄贈書)

1998年にこの本が出た時、おお、っと一瞬思った。でも、実際に手に取ってみる暇がなかった。なぜってまだ老人力がついてなかったから。そもそも、V図書館の日本語本を読破しようなんていうくだらないことを思いつくような心の余裕がなかったし、気力も体力も十分。とにかく前進、前進。徹夜や食事抜きで、毎日毎夜、何だか分かんないけど無闇に世界と闘っていたのだ。理由なき反抗。敵なき闘争。エネルギーの無駄遣い。でも、そうやって発散してないと生きてる心地がしなかったんだよな。で、老人力っていう本の題名をちらっと横目で見て「おお」って思って、あとは素通り。それから10年。赤瀬川原平のようにブタバコに入ってみたりはしなかったが、あっちこっちをフラフラして溺れてみたり痛い目に遭ったり、体力気力のブラックホール的減退現象も経験し、だいぶいい具合にヨレヨレになって来た。とにかく無鉄砲に下駄履きで駆け出すようなことが少なくなり、ぶらぶらと散歩がてらのV図書館で「ほ。」と溜息ついた目の前に『老人力』なんて本が、まるで自分のために書かれた本であるかのような人懐っこさで微笑みかけていたりするわけである。つまり、知らないうちにかなり老人力ついて来てたのですよ、あよっこいしょ。

10年かかりました。この本に再会するまで。
このように、本と人との出会いは結構簡単そうでいて、意外とそうでもないので、感慨深い。
出会ったと思って読んでも、理解できるとは限らないし。
と、『老人力』が理解できるまでに老人力がついてきた自分が誇らしくもあったりして。

ほおお。そうかーなるほどー。あーあ。ほほーん、あどっこいしょ。溜息が漏れそうなくらいやたらに感心しちゃったりしつつ読み進む。なんとなく横町のご隠居の妄言妄想を聞かされているような風情もあるのだが、侮るなかれ、ボケたフリをしているこのご隠居、タダ者ではない。60年代にはいろんなモノを梱包する梱包アートなんてのをやったり、ハイレッドセンターなる徒党を組んで街中にアートを持ち出したり、更には偽札アートを作って逮捕され、裁判にかけられもした筋金入りの前衛芸術家だった人なのだ。その後、小説を書いて芥川賞を取ってみたり、路上観察なんてことをやってみたり、ライカ同盟なんてのを作って写真を撮ってみたり、いろんな放蕩の末に辿り着いた境地、それが「老人力」。一見、柔和な好々爺のように見えるかも知れないけど、かなりの危険物件であるからして、老人力で革命でも起こそうと狙っているかもしれぬ。なかなかの確信犯。

この本を読んでみると、これを書いた時点での赤瀬川原平は、もしかしてまだ老人力が足りないところもあったのかなと思わないでもない。結構理屈っぽく、若者のように熱く語っているところもあったりしてね。でも、老人力が極まった場合、老人力なんてことを考えようとするそのこと自体が忘却の彼方、溜息の平野へと消え去っちゃうのだろうから、老人力の高まりを感じつつも、そこにどっぷりと溺れる前のギリギリのところで微妙なバランスを取りながら、自分の中にある老人力を観察・分析している1998年の赤瀬川老は、さすがである。これこそ人生を賭けた革命。今まで、誰もがそれを経験しながらも、一人としてそれを語り得なかった「老人力」。このネガティブなポジティブエナジーを浮かび上がらせた貢献は大きい。

それにしても、オモロいことを考えるおっちゃんである。おっちゃんと呼ばす、敬意を込めてオモロいことを考えるじっちゃん、か。老人力バロメーターの一つに、趣味にどれだけ入れ込めるか、生産性と何ら関係のないことを楽しめるかってのがあるらしいのだが、この人は視点をちょっと変えることで世の中の端っこにあるどうでもいいことを楽しむのがとっても上手い。新聞紙に挟まった広告紙でも、路地裏の看板でも、桑名の焼蛤と柘榴の食い合わせで食中りして救急車で運ばれても、結局はそれを妄想気味にややぼんやりと、でも時々思いっきり鋭く観察して、隅々まで舐めるように面白がってしまう。そして、今やどうやら頭だけでその作業をやってるのではないらしい。「ぼくはむかし趣味を軽蔑していた。...趣味よりも思想の方が偉いと思っていた」ということだが、老人力がついてきた今となっては思想よりも趣味。頭よりもよっこらしょっと節々が錆び付いて来た体が中心。この辺りが、ぼんやり&鋭くの極意なんだろうな。

赤瀬川老が老人力というフィルターを作ってくれたことで、今までそこにあったものが見えるようになり、マイナスだとばかり思っていたものにプラスがあることが分かり、全く何も関係ないと思っていたものが結びつき、生産性が欠如していると叱られそうな私の生活にもこの素敵なエネルギーが充満しているらしいことが分かったのだからすごい。何といっても、老人力発見以後、年を取るのも悪くないなあ、と鼻歌を歌いながら密かに自信をつけ、鏡に向ってポーズを決める老人が増えた。んじゃないかと私は勝手に想像している。

アメリカは老人力理解不能の国だと思う」。なるほどねえ。アメリカに行くといつもなんとなく落ち着かないんだけど、あの感じは老人力の欠如であったのか。若い国だもんなあ。なんとなく国中街中にハイスクールっぽい桃色ウラ若さが溢れてるもんなあ。まだ老いを知らぬ若者の無邪気さ、そして残酷さ。古いものより新しいもの。そう言えばオバマ氏だってもChange!と叫んでいるではないか。侘び寂び老人力、そのいづれのセンチメントも確かにアメリカ人にはなかなか伝わりそうにない。V市も本当に美しく(晴れた日にはね)、世界の住みやすい街ベスト3くらいにはいつも入ってるらしいが、私はなぜかどうも好きになれないところがあって、それが何なのかずっと不思議に思っていた。分かった。老人力の欠如。老後に静かに余暇を楽しむと良さそうな街なのだが、どこか決定的に潜在的老人力が不足している。それとも私の老人力がまだ足りないので、この緩〜い感じに身を浸せずにいるのだろうか。いやいや、でもどうやら、街にも年齢というものがあって、若い街には老人力が備わっていないってのも本当らしい。欧米とついひとまとめにしがちだけど、新人の米じゃなくて古参欧の方は骨董趣味があったり、古いもの好きだったりと老人力の高い場所らしいし、日本文化はもうとことんどこまでも老人力の巣窟。そうか、日本への憧憬は老人力への憧憬であったのか。

...温泉、焼き鳥屋、寿司屋、相撲観戦、文楽義太夫、寺院参拝、食後の緑茶、蕎麦やで日本酒...。日本を想う時に心に浮かぶものって、確かに老人系が多いものなあ。あーあ。老人力の不足している北米の地で、私はどうやったら生き延びてゆけるのやら。なんとかして老人力を普及できないものか...などと悩んでいるウチはまだまだ老人力が足りないのだろう。そのうち、いい具合に老人力がついてきて、ああ、まあいいか。まあいいね。と、この青空の下、キラキラ光る海辺を散歩して、ああ、幸せだなあと、ただただ思うような日が来る。ようには今の私には思えません。まだまだ若気の至り。老人力は翻訳できるのだろうか、寿司屋を出すみたいなノリで老人力の輸出。などとごちょごちょと頭を捻りながら、小さな革命を試みよっかなーと画策している。いやどうかな。まあいいか。まあいいね。ふぁーあ。そんなことどうでもいいからまずはちょっと、とりあえず午睡。ぐーぐー。え。あ。お。これはどうもかなり老人力がついて来てるらしい。オッケーオッケー。ふにゃあ。と読了。