V図書館読み切り計画:009『日本流 - なぜカナリヤは歌を忘れたか』

モスバーガーの店員が、いつのまにか匂い立った春の陽気に朦朧とする朝、ハンバーガーのバンズとライスバーガーのバンズとで思わず作ってしまった和洋折衷バーガー。そのちぐはぐな質感、舌触り、粘り気、匂いに両側から挟まれて、大変に居心地の悪い海老カツの心地。両側がパンであったなら、堂々とおいらはハンバーガーと名乗り、両側が米であったらえっへんおいらはおにぎりと胸を張るのであるが、何か苦しいのです、この状況。ハンバーガーには、お前違うだろとどつかれ、おにぎりにはヒソヒソ陰口を言われ。おろおろおろ。随分そんな場所におろおろしてあっちのソースを舐めたり、こっちの醤油を嗅いだりしていたのだが、腹が決まった。喰ってしまおう。とにかくそういうものが出て来てしまう所にいるのである。不味くても、腹下しを起こしても、とにかく目の前にあるものを喰ってしまおう。

...と二つの異なる文化の中に挟まって、日々「私って日本人だなぁ」と痛感させられる場面に遭遇しつつも、その肝心の日本人ということが今ひとつよく分からない。分からないと説明できない。これまで、このよく分かんないことが理由で、外国人衆とファックユーだのユーファッキングビッチなどという雑言を浴びせ合う(恐ろしいですが、実話です)状況が、芸術の共同作業の場などで起こり、最後には「まあ、結局は文化の違い。しょうがないか」と、怒りが諦めに変わり、私が日本人であることが問題の原因であると結論づけられて議論が終わってしまう、ということが何度かあった。悔しい。私が阿呆であるからとか、狂っているから、石頭だから、などと言った個人的な理由ならばまだ判る。でも、「日本人だからね〜、仕方ないね。(薄ら笑い)」というまとめだけは絶対に許してはいけない。ような気がした。

だが、その時、外国人衆との間になぜそのような齟齬が生じるのか、私の中のいかなる日本がそうさせるのか、彼らにきちんと筋立てて説明するだけの準備もなかったし、自分自身の中でそれをはっきりさせることすらできなかった。こうした問題は、自分の中の日本に無自覚なために、ある日フと出てきてしまうもののようでもあった。これからも長きに渡りこの「パンライス異形バーガー」状態に挟まれ続けそうな我が人生の道程にあって、ここのところを曖昧にしていては、もうどうやら一歩も前に進めないようなところまで来ているようでもあった。今日始めて、明日には解決ってな具合にいかないことは判っているが、ライフワークになっちゃってもいい、この自分の中のモヤモヤを少しずつすっきりさせていかなければ! 

と鼻息荒く、ともあれ喰っちゃったのです。パンライスバーガー。そしてそれを飲み下した辺りで、この本が目に留まったのですよ。直感。これだ。ここに何かここに手がかりがあると。

(所蔵日:2002年10月22日)

ものすごい物知りの若旦那、松岡正剛と遊山の旅に出たような気分になる本である。旅といっても、二畳っきりの茶室の中の旅だったり、三十一文字の宇宙への旅だったり、童謡の歌詞と歌詞の隙間への旅だったりする。ものすごい情報量である。ホストコンピューターみたいな脳である。しかも松岡正剛はやたら足が速いので、ついていくのが大変。若旦那、待って〜。と何度叫んだことか。しかもこの若旦那、かなりの粋人でありながら学問の徒でもあり、「あら、これ何かしら、きれいねえ」なんてうっとりでもしようものなら、古今東西、漢学蘭学、現代哲学の用語なんかも引っぱり出して、きれいねえなんていう隙間だらけのところを、あの手この手で突っついたり、埋めたり、あっちやこっちに飛ばしてくれる。それで、へえーっ、なんて感じ入っていると、もう若旦那は何か別の音を聞きつけて、お、あっちあっち...なんて裏通りの方に入って行って、帳面に何やら難しそうなことを書き留めていたりする。博学な旦那さんですよ、はあ。なので、本全体の印象はどっちかと言うとあんまり粋ではない。むしろ知のインデックス。ここから出発して、いろんな「日本流」を自分の足で旅するための、旅行ガイドとして使うのが良さそうである。とっても一日二日で消化吸収できる代物ではない。

面白いこと、考えるヒントがたくさん散りばめられている。日本と外国をすぐ比較して、日本の特殊性を語ろうとするような単純な日本文化論はいけません! などと書いてある部分もあり、パンと米に挟まれている(と感じている)視点からついその双方を単純比較しがちな自分の目線にもちょっと距離を置いてみるか、と思ったり。どっかを放浪していて一年に一度フラっとやってくる「まれびと」の文化なんかを思い出させてもらい、ああ、こういうスタンスもあったっけ。と目が開いたり。畳二畳に空間が縮小された茶室はその分時間を拡大させたのだ、などという小さいもの派には興味深い指摘があったり。古今東西の昔話や伝説では擬死としての籠りの時期を抜けることで、何かもっと大きなもの、突き抜けたものとして再生するなんていう話は、長く擬死状態を経過している身としては、変に励まされたりもして。などなど、いろんな話が出て来るが、一番気になったのは「遊び」ということ。人が遊びを忘れ、遊び場がなくなり、遊び方を忘れたということ。見立て、貝合わせ、連歌茶の湯能楽、新内、小唄、着物の柄。はあ、日本人はなんと遊び上手だったのでしょう。遊べなくなった日本人。なんだか退屈だなあなどと、そんなことを言わせないくらい、広く果てしない遊びの宇宙、そしてその知的痴的な愉しみが無限に隠されているというのに。勿体ないですね。この遊びの宇宙へのパスワードをなくしてしまった私たち。ハンバーガーおにぎりの隙間から見ると、ほんと勿体ないです。あまりにもその宇宙美味しそうで。なのに誰ももう食べないし...。ああ、食べたい...。おなか...すいた...。なんて言いながら、そうかライスバーガーってのはあれは結構若旦那の言う「日本流」なのかもしれないな、などと、世界が少し違って見える春の午です。