食懺悔:スイッチを入れろ!

これは懺悔である。大学生になり、一人暮らしを始めた頃から、随分長い間、私の食生活は滅茶滅茶であった。生来怠惰な性格が伸び伸びと羽を伸ばし始め、それに加えて、表面的には「忙しいから食べてる暇なんかない」「食事なんかより大切なことに時間を使っているのよ私」「飯よりアート」なんて、よく分からない理由づけをして、ちゃんと3食食べない&食べる時はロクなものを食べないという生活が堂々と開始されたのである。朝はできるだけ寝坊したいという理由で布団の中から半寝のまま手を突き出し、探るとそこにはポテトチップスの袋。まずこれを半寝のままパリパリと食べ、ようやく3/4くらい眼が覚めた状態で這いずりながら冷蔵庫前にナメクジ式に移動。卵か牛乳でも取り出すのかなと思わせておいて、アイスクリーム。ま、これも卵と牛乳であることには間違いないが。この塩味ジャンク+甘みジャンクという組み合わせが、怠惰な朝の定番であった。

そして昼。ここでもまた、メシなんかに時間かけてたら世界に遅れるとかいうワケのわかんないノリで、来る日も来る日も、大学生協売店の、世界一寂しいハンバーガー1個とフライドボテト一袋を素早く喉に押し込んで終わりにしていた。このハンバーガーのなんと湿っていたことよ! ぺしゃんこの2枚のじっとりしたバンズ(らしきもの)の間に、調理油の臭いだけで味のほとんどない肉(らしきもの)が一筋、すみません、これでも私いちおうハンバーガーなんですって猛烈に謝りながら、情けない泣き顔で訴えかけて来る。泣くなよ! もう十分にお前は湿ってるだろうが! お前はハンバーガーじゃない。なんかもっとユニークなもんなんだ。ハンバーガーだと思うから悲しいんだろう。ナンバーワンじゃなくてオンリーワンでいけ!...なんてなことを時代を先取りして呟きながら、そんな素性不明物を毎日毎日食べ続け、人間が一生のうちに食べてもよいハンバーガー(らしきもの)の量を3年くらいで食べ尽くしてしまった。そんなことができたのは、「メシなんかにつかう金はない」とか「メシよりもなにかもっと有意義なことのために私は生きている」という青臭い上にまったく意味不明の大義名分を押し立てて、味覚および人体の生来の防御機能を「オフ」状態にしていたからであるらしい。

いやはや、若さとは恐ろしいもので、そんなゴージャスな朝食昼食を食べた後で、さて映画館に怪しいアート映画を見に行くぞ、あ、夕飯食べてる時間ないや、でもお腹がすくし、いやでもやっぱり映画、メシより映画だ、などとここでもメシの優先順位は第一位になることはなく、映画館に向う電車の中でおじさんおばさんの視線を浴びながらカロリーメイトをポリポリ食べて終わりなんてことが日常であった。

今思うと、その当時やたらニキビ面で、肌荒れがひどかったのだが、あれは青春のシンボルなどという美しいものではなくて、ハンバーガーとアイスクリームの逆襲であったのだなあ。若い体細胞がしくしく泣いていたのだろうなあ。もうやめて。もうやめて。って。

と、それにその時に気づいて改心しておれば、更なる悲劇は免れたであろうに。懲りない私は、フランダースの犬の街に行ってからも、体細胞への拷問のような日々を継続。彼の地はフリットと呼ばれるフライドポテトが名物の地である。しかもスモールサイズでもてんこもり+マヨネーズの山盛り状態が基本形。これだけを夕食としたことも何度もあった。そしてサンドイッチの嵐。日本で言うと、まあおにぎりの嵐というところなんだけど、ランチの定番はあちらではサンドイッチ。このサンドイッチをランチのみならず、いろんな時によく食べた。別に忙しいわけでもなかっただろうに、それでも私の脳はまだ忙しいフリをして、「料理」なんてやってる時間がない。もっと意味のあることに時間は使うのよ、と、とりあえずのサンドイッチ。小型のバゲットを二つ割りにして中にサラダ、と呼ばれるものを挟んだやつ。サラダ、ではなくて、「サラダと呼ばれるもの」だよ。だって、ツナサラダってのは、ツナがマヨネーズの池の中に泳いでるだけのヤツを指し、野菜が欲しい時は別注しないと入れてもらえないんだもん。いやあ、ここでもまた一生分のサンドイッチを3年くらいで食べ尽くしてしまった。さすがにF犬街ではカロリーメイトは手に入らなかったので、その頃の映画・電車スナックはスニッカーズ。常食マヨツナサンドイッチに加え、今夜の夕食はスニッカーズ+ポテトチップスだけですぅなんていう、またまた恐ろしいことを何年も続けていたのである。

もうその辺で、体細胞は目の下真っ黒。ぜーぜーはーはー虫の息であった、のであろう。それでもまだ若さで乗り切ろうと味覚も体の防御機能も「オフ」のまま、食べるということを抽象的なレベルで処理して実際には食べないという癖を直さないままに、なんの反省もなく日々を暮らしていた、そんなある日。

細胞達が、叛乱した。もうこれ以上の搾取、ご無理ご無体には耐えられぬ、と。彼らは完全に疲弊し、枯れ果て、満身創痍であった。

ある頃を境に、体調がひどく悪化しはじめた。
鏡を見ると、顔には口の周りや目の周りに奇妙な赤いじんましんが噴出、やせ細り、顔は青く、幽霊のように精気のない姿。更には精神的な落ち込み。ひきこもりも併発し、皮膚はガサガサ、心はボロボロ。ぺーかんぺーかん、全身至る所から危険!危険!の赤ランプが点滅し、そこに至ってようやく私は、自分の体の悲鳴を明確に聞いたのである。目の前には一つのスイッチがあり、すがるような気持ちで私はそれを「オン」にした。世界が、180度回転した。

それから今に至るまで、食生活は少しずつ改善され、遂には「野菜はやっぱりオーガニックね」とか「趣味は料理」とか平気で言うようなところまでいつのまにか辿り着いたのだが、あそこまで拷問・搾取を受け、ずたずた、ヨレヨレにされた体細胞達が完全に健康を取り戻すには、まだもう少し時間がかかりそうでもある。今思うと、ハチャメチャな食生活をしていた10+年間、若さもあったのであろうがよくそこまで大病もせずに生き延びていたもんだと不思議ですらある。

どうやら私の体細胞の最終的な破滅を救ってくれたのは、幼少時代に祖母が食べさせてくれた数々の田舎料理の滋養であったようだ。野菜の煮物、魚の煮付け、しかも野菜の多くは祖母が家庭菜園で作った採れたて、もしくは農家のおばあさんがリヤカーを引いて売りに来る、地場物の採れたてだった。毎日毎日、料理をきちんとして、食べさせてくれたあの日々が、あの時に培われた細胞が、残っていたのやらいないのやら、いやたぶん最後まで骨の髄や筋肉の彼方に、記憶のように淡く残っていて、私の体を最終崩壊から救ってくれたのだと思う。

人は食べるもので作られる。細胞の全面降伏の危機に直面してからは、ものごとの順序が劇的に入れ替わった。まず食事。腹が空いては戦はできぬ、である。人は食べないと死ぬのである。ヤバいものを食べれば、細胞もヤバくなるのである。こんな生命にとって当ったり前のいろはのいを、一度死にそうになってみないと理解できないというところが人間というのは全く変な生き物であるなあ。いやはや、長い道のりであった。でも、ようやくその「い」に辿り着き、細胞の喜ぶものを選び、作り、食べることがこのごろちょっと楽しくなってきた。そして今更ながら、そんな理屈は何も言わずに、日々黙々と台所に立ち、滋養豊富な総菜の数々を食卓に並べた祖母は偉大であったなあ、と。感謝。感謝。