全てはボタンから始まった、らしい

1000から350を引くような計算がこの上もなく苦手。学生の時に四谷界隈の中華料理店でアルバイトをした折には、650円のランチのお代に1000円を差し出すサラリーマンのおじさんに450円のお釣りを渡し、その親切なおじさんが、笑いながら100円を返してくれるなんてことが連日勃発。お金のやりとりを瞬時にすべき局面で、自分の頭が「全く」機能しないということに気がついたのはその時が初めてであった。それまで学校の算数で、バーチュアルな1000-350をゆっくりと鉛筆&消しゴムを使ってやっていた時には、こんなのかんたんだー、えっへん、なんて調子だったのにだよ。これ、まさに学校教育の盲点なり。実際の重みのある紙幣硬貨を手にした途端、脳が完全に活動を停止。小学1年生でもできるような計算が「ぜーんぜん」できなくなってしまうという一種の超能力が、なんと私には隠されていたのである!!!

遡って、子供の頃、レジスターというものが大好きで、大人になったら「レジ打ち」のおばさんになろうと密かに狙っていた。当時のレジスターは、まだ機械的でガチャガチャというような音を立てる巨大なマシンで、スーパーマーケットの登場と共にそいつらは街にやって来た。なんでレジスター? ボタンです。あのボタンが無性に押したかったんです。子供ってみんなボタン好きでしょ。エレベーターのもバスのも、みんな押したがる。なぜかな。あのでっぱってるものを押したいキモチ。それってどこか人間の深いところにある欲望とつながっていそうだけど...。でもまあ普通はある程度の年齢になると、ボタンへの興味は自然と薄れて行くものである、らしい。但し、それが継続する場合もある、らしい。子供の頃によくあって、その後なくなるものとしてはチック症というのがあるが、私はこのチック症も未だ治らず、ボタン好きも治っていない、らしいのだ。

チック症がどうして大人になっても治らないのかは北野武にでもいずれ聞いてみることにして、さてボタン。私はボタンの形状も好きだし押し心地も好きだし、押すというインプットによって起こるアウトプットも大好きだ。(押してもなんにも起こらないボタンは悲しい)だが、ボタンへの慕情とすら呼べそうな何かもっと深いものが、私のボタン症候群の底に潜んでいる、らしい。ということでよくよく考えてみると、それはどうやらボタンというものが私の中では科学とつながっていることと関係がある、らしい。ものすごくはしょって言うと、レジスターのボタンと宇宙船の中のボタンは私の脳の中では途中をすっとばして直結してしまっている、らしいのだ。スタートレックの宇宙船の中なんかによくある、あの色とりどりの光るボタンのロマンが、レジのおばさんの指先から生まれる。ここにあるボタンを押すことが、ずっと彼方の、未来の、宇宙の果ての、永遠の、冒険物語の、お星様の果ての、その人間を超えた輝きにつながっている、という壮大なインプットとアウトプットの連想がいつのまにか出来上がり、それはぜんぜん全くどうやってみても科学的じゃないんだけど、その摩訶不思議な連想に、これまでの自分の人生はいつも振り回されて来た、らしい、らしい。

今思うと、この「ボタン=科学、もしくはその夢とロマン」という連想を抱くようになったのは、子供の頃毎月購読していた学研の「科学」&「学習」のせいである、らしい。家庭教育の一環として母親がこれを買い与えていた、らしいのだが、私はこの「科学」&「学習」のおかげで、ほとんどそれ以外の本を読まない子になり、やがては「学習」という名前から連想するお勉強モードを避けて次第に「科学」に逃避。「学習」の購読は中止となり、「科学」についてくる付録を組み立て、ボタンを押して豆電球を点滅させたりしている辺りからボタンフェチとなり、近所にあった市立の小さな科学センターでボタン満載の科学遊具で遊んだり、豆プラネタリウムを見たりしているうちに、「ボタン」「科学」「宇宙」の三つは切っても切り離せないくらい結びつき、自分にとってのワクワクするもの御三家となり、大人になったらなりたいものの第一はレジ打ちのおばさん、第二は宇宙飛行士、と何の迷いもなく並べて書くような混乱がいつの間にか生まれた、らしい。

ここでまっすぐ科学の道を歩むことができたら、今頃宇宙ステーションで満面の笑みを浮かべながらボタンを押しまくり、科学の子としての任務を全うしていたであろう。しかし、雑誌「科学」の力も生来の計算力のなさ、数学的センスの恐るべき欠如には克てず、現実界では私は科学者の道を歩むことがなかった。やっぱり1000-350を咄嗟に計算出来ないような宇宙飛行士は遠慮したい。つまり私は、現実界ではどうやっても「ボタン」「科学」「宇宙」の間にある無限の計算式や法則を「科学的に」解明するための頭の構造を持っていないということ、らしかった。そして現実界ではレジスターひとつ使いこなせず、いつも100円お釣りを余分に間違えるという有様で、レジのおばさんへの道も早々に閉ざされてしまった。

そんなわけで、現実界ではない場所でこの3つを結びつけることしか自分にはできない、らしいということを次第に知り、それができる場所を探しているうちに、いつの間にかアートというところに辿り着き、何十年も経た後の今頃また「科学」の付録みたいな小さな電球、プラスチックの部品、小さなボタンや宇宙の果てについてのお話なんかを机の上に取り出して、どうにかこうにかそれを組み立てて、ずーっと向うの更に遠くにある輝きをつかまえようとしているということ、らしい。

そういえば小学校に入る少し前、おねだりして買ってもらったおもちゃのレジスターがあって、そのボタンをカチャ、カチャ、カチャ。合計のボタンを押すと小さな引き出しがチーンと鳴って開くという仕組みであった。その赤いブリキの胴体も、緑色のボタンも何故かとてもよく覚えていて、さて今、目の前を見るとそれと同じようなオモチャやらガラクタやらが、アートという名の下に並んでおり、あれから何の進歩もしなかったのか、それとも人間は5歳の知能に追いつくのに何十年もかかるものなのか、などと、これまでの放浪彷徨はなんであったのだろうと、出発点にいつのまにかまた戻っているらしい4月。どうやらまたここから何かが始まる、らしい。