V図書館読み切り計画:007『にほん語観察ノート』

たまに日本に帰ると愕然とするのが、まずファッション、次に風景、次に新発売清涼飲料水、次に新型携帯、次に新人歌手、そして言葉。こんな時、浦島太郎現象、もしくは私は火星人です現象が起こってしまう。ぽかーーーーーん。ゴゴゴゴゴグヮオーーーーン。私と日本の間に亀裂が走る音が聞こえる。まあ、大抵はその溝の奥底を覗くことはせずに、あらよっと飛び越えて忘れちゃうんだけど。ただ、このズレは年々大きくなるようでもあり、そうでもないようであり、ともあれ少しだけ私は不安になる。

ファッションは疾うの昔に諦めている。ただ日本に上陸するとその一歩目から、即座に自分の身なりがあまりにもみすぼらしくボロボロであるという事実に今更ながら驚く。背景パネルを入れ替えると、こんなにも浮くのね〜。対策としては、まずみすぼらしくない程度の服をどこかから調達(借り着等)し、それを着て洋服を買いに行く。V市のノリそのまんまのなりで行くと、洋服屋の入口に見えない探知機が置かれているらしく、これまた見えないバリアのようなものが作動して、中に入ろうとする私を押し返し、どうしたわけか、あら不思議、中に入ることすらできない。しかも、探知機を入れ忘れたお店を見つけまんまと入り込んでも、どうしたわけか私はいつのまにか透明人間になっており、マヌカンちゃん達の目には見えていないらしく、いつまでたっても接客してもらえない。ん? そんなに小汚く見える? ん? ん? と自分のナリを改めて見てみると、ははは、汚いわ。これ。化粧もしてないし。髪はもう1年以上切ってない。怖いよね、こんなものがこざっぱりとした店頭にいきなり出現したら。

「ファッションは気合いである。」という座右の銘により、こうした状況を気合いで乗り切る場合もある。裸で歩いていても大丈夫くらいに堂々としておれば、それくらい筋骨を鍛えておれば、胸をはっておれば、擦り切れたジーンズ、洗いざらしの10年もののTシャツもまた「ユーズド」などと呼ばれ、かっこイイと誰かが勘違いしてくれるかもしれないからね。...とこの方式でかつてはこの種の難局を泰然自若とクリアしていたのであるが、最近それほど筋骨も鍛えてないし、このやぶれかぶれの自信のようなものにやや陰りが。で、仕方ないので、その辺からとりあえず誰も文句の言えないような当たり障りのない服装一式を調達、それに身を包み(まるでスパイだな)デパートへと繰り出すという軟派な方策に流れる有様。筋骨を日頃から鍛えておけば、このスパイ大作戦のような茶番を繰り広げずに裸一貫デパートに繰り出せるわけで、そちらの方が精神的にもよろしいわけで、やはり筋骨は常に鍛えておかねばならぬなあ、とこれは自戒の言葉。

と、枕が長くなったが、このファッションと同じくらい変化が早く、新人歌手のように次々と新顔が現れるのが言葉の世界。これについていくのは容易ではない。日本国に居住していれば、嫌でもこうした言葉の潮流の中で翻弄され、それはそれで迷惑なことだったりもするのだろうが、異国の地にいると、日本語の言語感覚の変化といった微細なことを日々実感するのは至難の業。日本語日射時間が圧倒的に足りない。そんなことだから、日本に帰った時にうっかり口が滑って「ナウい」なんて言ったり、突然「合点承知の助!」なんて訳のわからん返事をしたり、自分では結構イケていると思っているファッションが傍から見ると10年20年遅れのアウトオブデートさんであったというギャップ、いつの間にか自分はちょっと振り向いてみただけの異邦人になっているのかもしれないという恐怖感が常につきまとうのだ。

というわけで、ともあれ、転ばぬ前の日本語サプリ。日本語に関する書籍をバリバリ音が出そうなくらいの勢いで読み漁る。流行語にいちいちついて行こうとは思わぬが、言葉の筋骨の基礎さえ鍛えておけば、あとは気合いでなんとかなろう。というわけで弱った体にまずサプリ。まあ、応急処置であるので、どこまで効き目があるかは分からないが、摂取しないよりはマシだろう。採れたてイチゴの代わりにビタミンCタブレットを飲み下すような不自然さはあるが、こうやってでも自分の中の日本語の鮮度をできるだけ保っていたい。元気になるらしい。この深いところで燃えている小さなたき火に薪をくべるとね。そう、言葉がその薪。炎はそうだな、日本人の心(演歌調)かしら? なんだろう。言葉は人を作るっていうものねえ。私の細胞の核のところはやはりどうやら日本語でできているらしいのだな。そうだよな、そうだ、そうだ、そりゃ当然だ。なんて納得しつつ、フと目に留まり、書棚に手が伸びたのがこちら。

にほん語観察ノート

にほん語観察ノート

(収蔵日:2003年6月12日)

10年程前に読売新聞日曜版に掲載されていたものの書籍版。というわけで、昨日今日の日本語事情が書かれているわけじゃない。でも、井上ひさしの鋭い観察眼で捉えられた事象は普遍の域に達しており、今読んでも十分効き目あり。中でも「交感的な会話」というのが面白かった。井上ひさしはこの「交感的な」というところに「なんでもない」とルビを振っている。交感的な言葉というのは、「こんにちは」「お元気?」「そうね」といった「相手の存在を認めたり、人間関係の基本を整えたりする言葉」で、その中には「いやあー、紀香離婚しちゃったねー」なんていう挨拶代わりの軽い話題のやりとりも入る。こうしたなんでもない言葉のやりとりが、人間の言語コミュニケーションには重要であって、演劇界でも昨今こうしたなんでもない会話を中心に据えた戯曲が現われ始めているというお話。意味を交換するのではなくて、感情を交感する言葉。なるほど。

この「交感的な」言葉が上手く使えなくて、夫婦の危機が訪れたり、会社で人間関係がぎくしゃくしたりなんてことがよくあるらしい。言葉は意味が伝わればいいんだろうとまあ普通は思うが、むしろ意味を伝えていない言葉の方が、コミュニケーションの中で重要だったりする。英語でも、この「交感的な=なんでもない」言葉を使いこなすのが一番難しいかもしれない。「uh-huh」とか「that's right」とか「really?」とかいった相づちが打てるようになるのに随分苦労し、そうした「交感的な」言葉を英語で喋るのはなんともこっぱずかしく、今思えば、この「交感的な」言葉が口からともあれ出せるかどうかってとこが外国語学習の一つの壁になってたみたい。今でも、なかなかスムーズに出ないですが、コレ。軽い話題もしくはジョークに至っては今でも苦手な領域。はっきりと内容のあることを伝えたり、受け取ったりするのは割と楽なんだけど、この「なんでもない」ネタで皆が盛り上がっている時についていけないこと多し。くーっ(...っと感情を伝えようと試みる平仮名三文字)。

さて、「交感的な」ということでは、この本の書かれた時点ではまだそれほど普及してなかったものに「イモティコン」(略してイモ!)ってのもある。スマイルマーク、ウインク、驚いた顔、がっくりしてる人の姿、などなど、ありとあらゆる人間感情を記号化したアイツらである。これもまた、英語だと笑っている人が:-)であるのに対して日本人の笑顔は(^_^)であるといった文化的差異も見られるのだが、それはともあれ、昨今のイモイモイイモの氾濫は、人々がいかに「交感的」コミュニケーションを渇望しているか、まさにそのことと関係があるんじゃなかろうか。なんて考えた。

時々、遠隔地に住んでいる友人とチャットなどするのだが、そんな時はもうイモの連続、電脳空間をイモイモイモがものすごい勢いで飛び交う。ありとあらゆるイモを不条理に並べ立て、それが笑いを誘い、それがお互いに阿呆をやっていられるくらいまあまあ元気な精神状態であることの確認となり、なんとなくお互い安心し、イモに対してイモを送ることで励まし合い、最後にハートマークのイモ、ハグしてるイモなどを送り、チャットを終える。ああ、あれもまた「交感」であるのだなあ。イモ交感。確かに雄弁である。イモのヤツら。しかし、イモにあんなに頼っていてよいのだろうか。イモのヤツらにこっちの感情を勝手にはいはいっと要約されちゃってるような瞬間もあって、油断ならぬ。本当に私の想いは伝わっているのかしら...。イモも捨て難いが、感情を交わし合うための言葉の再発見もいいなあ。歌を送り、言葉を一言交わすことがそのまま求愛であったような遠い日のことを思い出し、イモはとりあえず煮て喰ってしまい、もう一度自分の心をそっと覗き込んでみたくなる。言葉の原っぱをあてどなく彷徨いつつ、その時々の心の色を映す言葉の花を、見つかるまでいつまでも探し歩くような地道で気長な努力が必要なのかも知れないなあ、としきりに反省しながら読了。んー。んー。ぐー。とはいえ心余って言葉足らず。まだまだサプリのお世話になる日が続きそうな気配。