V図書館読み切り計画:006『しょっぱいドライブ』

まんまとやられた。なんとなくノリの良い題名と「大道珠貴」という名前の字面(なんと読むのか分かんなかった)そしてピンクの犬が舌を垂らしてこっちに迫って来るポップな表紙から、大学生くらいのイマドキのにーちゃん風やせ形前髪ちょっと長めTシャツピチピチ黄色系男性作家を想像してた。しかもこの作家の本はV図書館になぜか2冊ずつある。なんで同じ本を2冊図書館に入れるんだ、レンタルビデオやの今月のおすすめDVDみたいじゃないか。余程人気があるに違いない。しかもその2冊ともにかなり読み込んである形跡あり。ポップなスナック食べたい気分で棚に手が伸びた。

しょっぱいドライブ

しょっぱいドライブ

(所蔵日: 2004年3月26日)

さて表題作である一話目を数行読んだところで、えっ、この人、お、ん。な? ぐわ、ぐわ、ぐわ。もちろん確信があったわけじゃない、別に男性作家が女性の視点から小説を書いてもいいわけで。でも、そういうのに出くわすことは、意外と少ないんだよな。私小説でなくとも、男は男の体から見た世界、女は女の体から見た世界を描くことが圧倒的に多いらしい。女の気持ちを描いた男性作家の作品なんてのも、実はおじさんの目から見た女性への欲望の裏返しの表現だったりもして、やっぱり何かそこにズレを感じたりもする。逆に、でも、男性からしか見えない女のサガというものもあるのであり、そうやって男女はお互いに自分の目から相手を描いて見せたり、自分の目から自分を描いて相手に見せたりしながら、なんとなく、ああ男というものは、女というものは、こんな風に世界を見ているものなのか、と知らしめ合うということなのでしょう。もちろん女でも男でもどっちでもいい、という小説も多いだろうが、この『しょっぱいドライブ』には性に対するこだわりがどこか底の方に強烈に流れているらしく、だからなおさら書いている本人の性別が気になったのかもしれない。

さて、表題作「しょっぱいドライブ」。簡潔な文体でさくさくと読めるが、心の中はさくさくとは行かない。割と若めの女が、自分の父親くらいの年齢の男性と一種の恋愛関係になる、という設定がどうにもこうにも苦手なのです。この設定が小説に出てくると、なぜか非常に不快になり、丹田から沸き上がるぎゅーんと生臭い気持ちが鼻を突き、知らず知らずのうちに眉根に皺、食欲減退、かすみ目、鼻詰まりなどの身体症状が出て、早く小説の時間が終わってくれと念仏を唱えながら、チクチクと茨の上を裸足で歩くような、ガラスの破片が敷き詰められた競技場での裸足100メートル競争のような、痛みと焦り、苛立を感じて、どうにも切なく苦しいのだ。で、不快な小説というのがいけないかというと、そうでもないわけで、少なくとも「不快」というエフェクトを読み手に与えているという点で、小説はまずまず成功してるのかもしれず、それでも読み進むごとに益々裸足に突き刺さる切片のその不愉快さに我慢できず、益々陰鬱な心持ちになりながら、這々の体で最後の○に辿り着く。

まあ、こんなことを人前で分析してみてもしょうがないが、年齢差恋愛もしくは今時の言葉で言えば「カレセン」系の展開、更にはもっと露骨に爺さん(なんてストレートに小説世界では呼ばれず、その爺さんなるものが一体何であるかを描き出すことが小説の中心命題になってもいるわけだが)が、女であることをちょっと捨てたような女と同衾したりするというような話に異常なる不快を覚えるというのには、何がしか深層心理の動きが感じられ、まあフロイト博士、ユング教授などのお出ましを待たずとも、どうもこれは間違いなく何らかの抑圧もしくは心理的な傷と連動しているらしく。かと言って身に覚えもなく。一体これはなんなんだろう、と首を傾げる。しかもどうやらそれは若い子とデートしようとする爺さんへの不快ではなくて、どこか醒めながら爺さんと肌を合わせる女の方への不快らしい。女であることへの不快。この不快、深い。ふかいふかい。ふかいふかい。ふかいふかい。呪文です、これ、人生の呪文。

とまあ、そんな個人的事情で表題作はかなり辛かったのであるが、その他の2編、特に最後の一編では、むしろ私が最初に想像した青年作家のような、男性的ですらあるすっと引いた直線の如き飾り気のない描写が潔く、(レズビアン的という考え方もありそうだが)好き嫌いは別として幼なじみに会っているような身近さを覚えた。小学校くらいの時の、どうにもならないじりじりした友達関係や、嫌悪、隣の席の子の匂いなんかを思い出し、ああ、でもこれもやっぱりある種の嫌悪感と結びついているなあ。表面的にはサバサバとしたドライな文章であるのだが、どうやら大道珠貴の書いていることというのはどこか奥の方の存在の大いなる不快と結びついているのかもしれないなあ、などと足を引きずりつつ読了。汗汗汗。うーん、それでもどうも晴れ晴れしない。これは私の個人的な事情をもう超えてるかもしれないな。小説の危機? うぉぉぉぉ。この感じ、突き詰めていくと怒りになりそうなので、適当なところで納めておく。でないと、V図書館の書物の一つがバラバラ裂きの憂き目に遭うであろう。日曜日。静かな午後。

文体というのはしかし、面白いなあ。隠しても、その人が漏れ出てしまうのだろうかなあ。文体を人工的に変えることで、その人が変わったりすることはあるんだろうか。頭の中がごちゃごちゃの時に掃除をすると、なんだかすっきりするように。周りをすっきりさせると、頭の中が意図せずしてすっきりしてしまうように。やっぱりそうはいかないのだろうなあ。鏡だなあ、言葉は。