透明映画宵・青

春の宵。何か理由をつけてでも外を徘徊したいような澄んだ日の入り頃。橋を渡り、ダウンタウンへ映画を観に行く。徒歩で映画を観に行くのは楽しい。これができる街は楽しい。フランダースの犬の街に住んでいた頃も、映画は徒歩であった。

まだ夕暮れまで時間があるという午後5時頃に、映画仲間の与太者から電話がかかる。「映画、観に行こうぜ」。そしてその与太者はプラプラと歩きながらやってきて、この与太者と合流して駅の近くの映画館までまたプラプラ歩いて行く。特に見たい映画が決まっているわけでもなく、映画館に着いてから映画の場面の写真を並べて紹介している内容案内版の前を4-5分ウロウロし、どの映画にするか物色。大抵の場合、二人の与太者の意見は一致するか、または少しばかりの交渉の末にまずまずの映画に落ち着くのだが、時には「これだけは絶対にイヤだ」とか「コレが見たいのだ見たいのだ」とか、意見が衝突することもあった。

でもまあ、たかが映画、されど映画である。喧嘩して別々の上映室に消えるなんてことはまずなくて、適当な一本を決めて、並んでそれを見た。いや、あれはどうも、大方は私が譲らなかったのかも知れず、見たくない映画、気の進まない映画を与太者Aと観た覚えは一度もない。

映画が終わると、また徒歩で家に帰る。気分がものすごく高揚しているような時は、途中でカフェに寄る。でも大抵は、さくさく家に帰る。与太者Aは普段はものすごくカフェ浸りして、カフェに住んでいるようなヤツだったので、映画の後でカフェに寄らないのは積極的な選択であったような気がする。今見た映画について、語り合いたくなかったんだな、あれは。とはいえ当方、与太者Bもまた、どっちかというと、しばらく映画の余韻に包まれていたかったので、与太者Aは最適な映画仲間だったんだな、あれで。

帰る道すがら、さすがに緯度の高いフランダースの街とはいえ、夜の帳が青く降りていて、三角形の公園の一辺に沿うように続く裏通りを並んで、やけに早足で歩いていると、二人ともなんにも喋らないし、ぐんぐんと進んで行く大小二つの影が、それ自体一つの映画の中の情景のようでもあった。三角公園はゲイの集まる公園で、いつもその脇を通る時に、怯えたAが公園と反対側の歩道に毎回律儀に移動するのがなんだか可笑しかった。

あれもまた、青く深く透明な、宇宙の掌に護られて中空にそっと浮いているような宵であった。

なんてことを。いつも思い出す。徒歩で行く映画。
シネマテークで観たのはハンガリーにおけるベルイマンもしくはアントニオーニと称されている映画監督、MIKLÓS JANCSÓの2本立て。観客10人程。こういう一生に一度だけ出会う、個性の強い人物のような映画が好きだ。社会主義運動やら、ハンガリーの内戦やら、政治的背景をイマイチ把握していないので本当に分かったの? と言われると自信ないが、被写体との距離と空間の広さを計算しつくしたカメラワーク、歌や音の大胆な使い方、圧巻の群衆シーン、偽物であることを隠さない血糊、一発発射すると5人くらいが倒れる銃撃シーンなど、その詩的抽象力はいつまでも私の脳に記憶されそうである。その後徒歩にて。街を通過。カフェには寄らず。もしくは、寄るべきカフェもこの街には見当たらず。今でも与太者Aは三角公園の横を通って映画に行くのであろうか、その時やっぱり反対側の歩道に移動するのであろうか、などと考えながら。橋を渡れば風。今宵も宙にそっと浮いている。あの時と同じような、透明な宵。