るてんのせいげい

冬のジャケットを脱いで、汗ばむ日射しの中を歩く。クイーンエリザベス公園。遅い午後。ウエディングドレスから胸がこぼれそうな花嫁。眩しい、白。噴水。子供が追いかけっこ。おじさんは片足飛びで運動中。人が巣穴からわらわらでてくるような日。虫と同じく、なんだかよく分からないけれど、つい出て来てしまった人影が、眩しそうに花の間をそぞろ歩いている。ピクニックの人々があっちに、こっちに。人気を避けて、ゴルフコース側へ向ってプラプラと坂を下り、まだ花の咲いていない花壇に面したベンチで本を広げる。

読んでいるのは日本語なんだけど、通過していく人の話し声は、さまざま。英語あり、中国語あり、東欧語らしき聞き慣れぬ響きあり。この街では当たり前ではあるが、アジア系と白人系のカップル多し。

と、日本語を読みながら、なんとなく感傷に浸っていたのですよ。マルチカルチャーだなぁ...確かになあ...通過していくグループがいちいちみんな、違う言葉で喋ってるのだしなあ...肌の色も、十人十色、みんな違うのだしなあ...それでいて、この人たちは観光客かもしれないし、ご近所さんかもしれないのだしなあ...肌の色や言葉では"カナダ人"かどうか全く判断がつかないのだしなあ...単一民族国家の日本とは真逆だなあ...、などと。でも皆一様にカメラを手にして。そんなところは同じだなぁ...、などと。思っていた、その時。

予感がしたのです。あ、何か来るな、来るなと。未知なるものの気配を感じたその瞬間! 予知能力です、これ。あ、出るなって。最近ご無沙汰していた冒険の香りが一瞬前にしたのです。世界がぐぐっとこっちに向って乗り出したのですよ。と、そのまさにその瞬間っ!! 登山帽みたいなのを被った、年輩のおじさんが突然ベンチの右側に出現(出現ですよ!出現!!)、ニコニコ笑いながら、私の本を覗き込んでいる。わ。そして本に覆いかぶさるように更に覗き込み、一言。「にほ〜ンじンですカ」。え、はい、と答えつつ、「日本人の方ですか?」と尋ねると、おじさんはそれには答えずに、私の手から奪うようにして本の題名を一生懸命読んでいる。最初はカナダ生活の長い日系人なのかと思ったが、このおじさんのブロークンな英語およびほにょほにょとした日本語により、カナダにもう45年くらい住んでいる韓国人であるということが判明。

日本語うまいですね、などと英語と日本語を混ぜ混ぜにその感動を伝えると、おじさんは自慢げに「じうんでじうんで」とか言っている。なんだろう「じうんで」って...。おじさんの日本語には微妙に韓国語が混じっており、しかも英語はあまり得意ではないらしく、英語で質問しても、なんとなくちんぷんかんぷん。ぐぐぐ。だがこういう通じなさをなんとか通じさせることにはフランダースの犬の街時代から慣れている。私はめげずに言葉の始源体験に戻るような勢いで、あーとかうーとか、知っている単語言語総動員、身振り手振り顔振り総動員で、つうじあうことを試みる。このおじさんもかなりの強者と見た。必死に何かを伝えようと、しきりに「んー」とか「うー」とか「...」とか頭を捻って苦しそうに言葉を探している。韓国語を一言も知らないのが辛い。しょうがない、とにかく分かんない時は繰り返してみる。ちょっとづつ揺すりながら、何度も繰り返す。と、お、きたきた。なんとなく分かって来た。意味をなさないような音のやりとりをしばらく続けているうちに、なんとなーく、おじさんが「じうんで=自分で」つまり自学自習で日本語を習得したということがわかり、私がそれを理解したということがなんとなーくおじさんに伝わった。らしい。一段と嬉しげに笑いながらおじさんは尚も続ける。「日本語、韓国語、英語、中国語、スペイン語ベトナム語...」その全部ができるんだそうだ、このおじさん。韓国語以外はかなりのブロークンであることが予想されるが、この6カ国語を駆使すれば、きっと世界中の人となにがしかのコミュニケーションは取れると思われ、なかなかの国際人である、この人。

おじさんは、それからどうやって自分が日本語を勉強したのかを説明しだした(みたいだった)。どうやら自分が昔読んだ本のことを言いたいらしいのだが、おじさんは「おかのぉ...おかのぉ...」と繰り返し、後が出て来ない。文字なら分かると言いたげに、掌に指で字を綴っている。それから紙きれを上着のポケットから取り出し、「pen? pen?」、んー、ないです。ペン。持ってないです。こういう時には地球を使え! というわけで、私たち二人は他の通行人の好奇の眼なんか全く気にせず、石ころで地面に文字を書いて、言葉のベルリンの壁崩壊を試みた。おじさんはまず「丘」と漢字で書き、それから「羊」、それから「洋」、それを見比べて、「んーんー、んー」なんて声を出して、「洋」の上にバツ印をつけた。「丘の羊」ということらしい。「ひつじ?sheep? sheep? ram? シープ?」などと私が連呼しているのだが、おじさんは「そうそう!」とも言わず、自分の頭の中に渦巻く言葉の断片をじっと覗き込んでいるようでもあり、それがおじさんの遠い青春時代、たぶんそれほど安穏でも単純でもなかったであろう昔の時間と結びついていて、おじさんは多少なりとも混乱、あるいは軽いトリップをしている風に見えた。

それで終わりかと思いきや、おじさんの伝達へのあくなき情熱はまだまだ続き、「るてんのせいげい、るてんのせいげい」と繰り返し始めた。なんだろう、るてんのせいげいって。しばらく地球を引っ掻きながらやりとりした挙げ句、せいげいは「生涯」であることが判明。るてんってなんだ? 流転? とすると「流転の生涯」ということになるが、本の題名かなんかなんだろうか。おじさんは英語と韓国語、日本語がつなぎ合わさったというよりは、その3つを煮詰めてダシを取ったスープのような発音と語彙で、それが「有名」なもので「宗教」に関係している、ということを伝えてくれた。「がどりんぐ」とか言っていたのが「カトリック」じゃないかと思ったのだが真相は不明。るてんは流転じゃなくてルーテルとかかもしれない。なんとなくキリストのことを書いた本のことを言っているのじゃないかと思ったのだが、それで日本語学習ってのもよく分かんないけど。

と、よく分からないながら、おじさんと私は春の日の中で地球をこちょこちょしつつ会話。丘の上の羊。流転の生涯。おじさんは、なんだかやたら嬉しそうに、満足しまた名残惜しそうに、笑顔で頷きながら木漏れ日の間の坂を上って消えて行った。もうすぐイースター。聖人ですな、あれは。何かの啓示かしらsheep on the hill。読書は完全に中断されたが、なんだかスキップしつつ帰る。地球も久々にこちょこちょされて嬉しそうである。